火災からの再建で全てを学んだ……
ROCK総支配人・三上浩太インタビュー

2017年の秋、ROCKに若い総支配人が誕生した。就任当時27歳の三上浩太だ。総支配人というポジションはROCKでは初めてのもの。2016年の火災からの店舗再建を牽引し、積極的に改革を進める彼は、なぜROCKにやってきて、今何を考えているのか? 若き総支配人に話を聞いた。

三上浩太総支配人

周りと自分の折り合いがつかなかった高校時代

——三上さんはROCKのある北杜市清里のおとなり、韮崎市の出身ですが、清里という場所は小さい頃から馴染みがあったんですか?

三上 僕の親父は山のガイドをやっていて、小さいころからよく連れて行ってもらっていました。その影響もあって、当時清里のキープ協会が小学生を対象に1週間とかの長期キャンプをやっていて、そういうのにも参加していたんです。そんな形で清里には接していました。おとなりなので広い意味では地元なんですけど、清里は清泉寮とかオシャレなイメージで、自分の住んでいるところとは全然違う、別世界という感じでした。

——もともとアウトドアや自然が好きだったんですね。

三上 でも、そういうのって中学生くらいの頃はあんまり言えなくて。中学生くらいだと周りの流行りに合わせないと浮いちゃうじゃないですか。特に僕は小学生のころからサッカー少年で、中学でもサッカー部のキャプテンでしたし、いわゆる学校では表舞台っぽいポジションだったわけです。だから、中学時代はみんなに合わせて流行りを追わないといけない自分と、自然とかアウトドアが好きな自分の間で板挟みみたいな感じでした。

——学校ってそういう同調圧力みたいなものがありますよね。

三上 実家がCDショップをやっていたりしたこともあって、音楽や本も好きだったんです。いろんなカルチャーに触れてハマりはじめたのもこの頃で。そういう葛藤の折り合いがつかなくなったのが高校時代でした。サッカーをやりたくて高校に行ったんですけど、上下関係の理不尽な厳しさに納得できなくて。サッカーがしたいだけなのに、なんでこんなことに縛られるんだろうって思いが強くなって、結局辞めちゃったんです。縛られるのがイヤなんでしょうね。その時、高校も辞めちゃおうと思ったくらいです。

——サッカーをやりたくて入ってサッカーを辞めると確かに居心地が悪いですよね。

三上 周りは普通に接してくれたんですけどね。どちらかというと、「全部くだらない」って感じてたんです。結局高校は辞めなかったんですけど、部活もやってないと暇じゃないですか。それで働いてみようと思ったんです。もう働ける年齢だし、お金を手にするってそれまであんまりなかったから、働いてお金を得るっていうのをやってみよう、と。毎日学校が終わったらすぐバイトという生活をして、月に15万円くらい稼ぐようになったんです。

——高校生で月15万はすごい!

三上 いきなりそんな生活になって、社会にちょっとだけ触れて、好きなものも買えるようになって。で、学校ではずっと本を読んでるような生活でした。周りの流行りとか興味ないみたいな感じで。中二病みたいなものを引きずってたんでしょうね(笑)。

思い付いたように出た旅で変わった人生観

——我が道を行くタイプだったわけですね。

三上 でも、ずっと「なんで生きてるんだろう」って考えていました。お金もすぐもらえるようになったし、周りが高校生として青春していることにも魅力を感じることができない。進路調査もずっと白紙で出してました。みんなが大学を決めて受験ってムードになってても、全然ついていけなくてツラかった。どうしたらいいのか、全然わからなかったんです。それで、高校3年の12月、もう周りは受験でピリピリしてる時期に耐えられなくなって。それで、NYにハーフの友だちがいたんですけど、ある日「あ、NYに行ってみよう」って。

——急ですね(笑)。

三上 バイトで貯めてたので、お金はあったんです。思い付いてすぐチケット取って、先生に「明日からNY行きます」って言ったら、ものすごい問題になっちゃって(笑)。受験シーズンですからね。延々説教されたんですけど、自分の人生を先生が決められるわけじゃないですから。それで2週間くらいNYで過ごしたんです。アメリカは日本と学校のシーズンが違うじゃないですか。

——9月はじまりなんですよね。

三上 そう。だから、友だちはもう大学生で。それでいろんなところに連れて行ってもらったんですけど、もうカルチャーショックだらけでした。10年くらい前、Facebookなんかが日本にも入り始めてきた時期で、そういうカルチャーの最前線みたいなものにも触れて。「制服着て8時30分までに登校」みたいな世界とは全然違うわけです。それまで人生を悲観してたところがあったんですけど、「こんな面白い世界があるんだ!」ってそこで思ったんです。進路は相変わらず決まってなかったんですけど、この旅のこともあって、卒業後旅に出ることにしたんです。当時一番憧れてたのが、60年代のヒッピーとかウッドストックみたいなカルチャーで。そういうカルチャーとか、ミュージシャンたちが憧れていた東洋神秘みたいなものにすごく興味があったんです。彼らはなんで東洋に興味を持ったんだろうって。だから僕は、日本じゃ、ましてやコンクリートの学校じゃ感じられない人間くささ、人間の有機的なものに触れてみたいと思ったんです。

——じゃあ、アジアに?

三上 わかりやすく『深夜特急』なんかのルートを現代風に歩いてみたらどうなるんだろうなって、そんな計画でした。飛行機を使わずに電車とバスで。パキスタンとかにも行く予定でビザも取ったんですけど、当時アルカイダの問題があって結局その辺は断念しました。

——それで卒業してすぐ旅に。

三上 卒業式後すぐに出発しました。そうしたら、出発の日、学校の友だちがみんな来てくれて。学校なんてくだらないって感じで過ごしてたのに……そこで「あ、俺、友だちいたんだ」って気付いて、何か泣きそうになっちゃいました。今もお店に高校の友だちが来てくれたり、ありがたいですよね。

——旅はどれくらい行く予定だったんですか。

三上 決めてなかったですが、結局1年ちょっとでした。中国からベトナムに下って、カンボジア、タイ、マレーシア、シンガポールまで行ってまた戻ってきて。山好きっていうのもあって、チベットのヒマラヤなんかに憧れもありました。途中でエベレストのベースキャンプとか行きました。標高5,700mくらいかな? もうそこで見る星空なんか、すごいんですよ。この世のものとは思えない景色。初めて何かを見て涙が止まらなくなるっていう経験をしました。

——帰ってきたきっかけは何だったんですか?

三上 結局最後に行ったのはインドでした。そこではもう半分暮らしはじめてたんですけど、かなり退廃的な生活になってしまっていて。完全に身体を壊しちゃったんです。それで、「あ、これはもう抜け出さないと」ってなって、脱出するように日本に帰ってきたんです。帰国してすぐ入院でした。肺もやられてたし、肝炎にもなっていた。身体が戻るまで大変でした。本当にこのまま死ぬんじゃないかって。

インド滞在時。今の雰囲気とはかなり違い、ワイルドな印象。

——そんなに危なかったんですね。

三上 その経験がすごく大きかったです。大げさな言い方をするなら、生きることの大切さがわかったというか……「生きてるだけでハッピーじゃん」って思うようになりました。それと、帰ってきて日本だったり、自分の住んでるこの地域の素晴らしさやありがたさがようやくわかった。人のありがたさもですね。死にかけていろんな人に助けてもらって帰国して、帰国してからも家族やたくさんの人に助けられて。やっぱり自分ってひとりで生きてるわけじゃないなっていうのを、ようやく実感することができた。

店ではなく、人がきっかけでROCKへ

萌木の村ROCKのスタッフと。

——帰ってきてからはどうしてたんですか?

三上 しばらくは入院して身体を戻す必要があったんですが、その後3年ほど、東京に行きました。東京に出てみたいという気持ちもあったんで。ただ、結局東京は合わなかったです。働いていたのが六本木って場所だったのもあるんでしょうけど、損得ばっかりで動く人なんかをいっぱい見て、それが許せなかったし、全然魅力を感じられなかった。今から思えば、もっといろんな人と会っておけばよかったとも思うんですけど。それでまた地元に戻ってきたんです。

——地元で何かやりたいことはあったんですか?

三上 帰ってきてしばらくは何もするつもりがなかったんですが、ひとつ決めていたことはありました。萌木の村の社長・舩木上次か、ワインをテーマに農家や産地と旅行を結びつける活動をしているワインツーリズムの大木貴之さんのどちらかについていってみたいということです。

——ワインツーリズムの大木さんも面白い方ですよね。

三上 結局決め手になったのは、萌木の村のホームページでやっている上次さんの連載でした。いろんなことを書いていて、それがすごく面白かったんです。たとえば、「都会は人がつくったもの、自然は神様がつくったもの」とか。そのときの僕には「東京で何もできなかった」というフラストレーションもあったんでしょうね。「あ、確かに。都会なんて行かなくてもいいじゃん」ってすごく心が軽くなったんです。それで、上次さんに会いに行ったんです。

三上さんが舩木上次社長に会いに行くきっかけとなった連載。舩木社長が様々な思いを語っていた。

——知り合いとかいたんですか?

三上 いえ、全然。アポも取らずに行ったんです。「今清里で石積みやってる」って書いてたから、行ったらやってるんじゃないかと思って。実際行ってみたら本当にいて(笑)。

——それで就職したんですか?

三上 いや、そのときは単に上次さんという人に興味があっただけで、ROCKに興味があったわけでもないし、「雇ってください」とかそういう話はしてないです。挨拶して、自己紹介して、ROCKに人が足りないからって、面接に送られて働くことに。「あれ?」って感じですよ(笑)。

——それが4年くらい前ですか。

三上 そうです。それからはもう怒濤の日々でした(笑)。とにかく忙しかったですから。ただ、その頃は会社をどうしたいとかそういうことは全然考えてませんでした。萌木の村やROCKってこういう感じなんだって見ている感じで。ただ、僕は社長といる時間が多かったんです。どこの企業でもあると思いますけど、社長といっしょってイヤがる人も多いじゃないですか。でも、僕はもともと舩木上次という人に興味があって来たから、誰か同行する場面にはよく行っていた。それで、話をしているうちに社長の話す理想と現実のギャップを埋めることはできないのかって考えるようになったんです。社長が求めるものって一流なんです。ビールにしても、ウィスキーにしてもいいものだし、建物なんかもハード面はすごくいい。社内で理解が得られないような未来を見越した事業なんかもある。でも、現実ではなかなかうまくいっていない部分も多いわけです。そこを何とかできないかって考えるようになっていた頃に、火事が起こったんです。

「ROCKがなくてはいけない」の本当の意味を考えないといけない

——2016年のROCKの火災ですね。

三上 はい。再建にあたって、もう言いたいこと、やりたいことを全部言ったんです。いろんな人と激論になったし、社長とも言い合いました。僕も何回も泣きましたよ(笑)。

——そこまでしようと思ったのはなんでなんでしょう?

三上 悪く言えば現状にフラストレーションがあったし、よく言えばやりたいことがたくさんあったんでしょうね。ものすごく不謹慎なことを言うなら、火事は不幸なできごとだったんですけど、再建するっていうことにはワクワクもしていたんです。もちろんROCKがなくなるかもしれないって不安もあったし、お金もかかる。でも、やりたいことを実現するきっかけにもなった。再建が進んでいくなかで、ものすごくたくさんの人の支援にも触れたのも大きかったです。こんなにたくさんの人が支えてくれてる、期待してくれてるんだって、そのとき改めて目の当たりにして、いろんな思いがいっぺんにブワーッとわき上がってくる、本当にふしぎな時間でした。

——結果、三上さんたち若手が中心になって再建が進んでいくことになったわけですね。

三上 もうゾクゾクしました。個人でこれだけの事業を行うことなんてまずないじゃないですか。責任も重いけど、楽しめたことが大きかったですね。

——そんなこともあって三上さんはROCKの総支配人というポジションになるわけですが、今やりたいこと、やらなきゃいけないと思っていることはどんなことですか?

三上 僕は総支配人ってポジションになったのは、きっかけだと思うんです。会社が変わっていくためのほんのきっかけで、今はまだスタートラインに立ったかどうかというくらい。会社を変えていくためには、僕ひとりの力じゃどうしようもないわけです。だから、これをきっかけにスタッフみんながお店やこの地域をどうしていきたいかっていうのを共有していかないといけない。外から来たコンサルタントに変えてもらうんじゃなくて、中のスタッフから変えていかないと、組織や地域って変わらないと思うんです。それと、地域の人とももっとつながっていきたいなと思ってます。ROCKって清里では重要なお店って言われますけど、その意味をもっと考えないといけない。単純にお客さんがたくさん来るって意味ではなく、人と人がつながって地域の価値をつくっていく起点になるような……それが本当の意味で地域の核になるってことだと思うんです。

——ハブであり、拠点となるようなお店ということですね。

三上 そう。そのためにはまずスタッフの意識を変えていかないといけないし、大事にしていかないといけない。僕なんかまだまだ力不足ですけど、少なくとも何かしら形にして残せるまではここでやっていこうという覚悟はしています。

 

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