「苦しい」と思ったらそいつはリーダーの資格がないよ……
ROCK創業社長・舩木上次インタビュー

1971年、まだ国道も砂利道だった清里で喫茶店ROCKをオープンした舩木上次。清里開拓の父と呼ばれるポール・ラッシュ博士の影響を受けて育ち、ROCKの社長として開店以来ROCKと清里を見てきた人物だ。 開拓時代からの魂や文化を受け継いできた彼は、ROCKと清里の今とこれからをどう受け止めるのか。そして、リーダーとはどうあるべきなのか。改めてその歴史を振り返りながら聞いた。

人は過去に見たものに憧れる

——上次さんは子どものころどんなふうに過ごしていたんですか?

舩木 俺の親父は13歳の時に生まれ故郷が奥多摩湖のダムに沈むことになって清里にやってきた。それで、戦争のあと今の清泉寮ジャージー牧場、当時はまだ高冷地実験農場っていったかな?そこで働いていたんだ。

舩木上次社長の父・常治さん

母は空襲で疎開してきて、その後病院で働いていた。だから、物心ついたときは子羊とか子牛、子豚たちと戯れてたって感じだね。農場関係者の子どもは同世代だと5人くらいしかいなかったし、幼稚園もなかったから、小学校に入るまでは大人とよく遊んでた。当時ワークキャンプっていって、大学生なんかがボランティアで働きに来るシステムがあって、立教大学とか青山学院大学、上智大学の学生さんがたくさん清里に来てたの。そういう人たちに囲まれてた。だから、小学校に行って初めて言葉の違いに気付いた。地元の人たちはいわゆる甲州弁なんだけど、俺は標準語。周りがみんな標準語だったから。

——キープ協会の創設者で清里開拓の父と呼ばれるポール・ラッシュ博士ともその頃からの交流だったわけですね。

ポールラッシュ博士と。一番左が、舩木上次社長

舩木 そうだね。物心ついたときから、先生が日本にいるときは1週間に1度必ず教会で会うわけ。オレは先生のペットみたいな感じだったんじゃないかな?(笑)ポール先生ってものすごいきれい好きでね。もし今ポール先生がここにいたら毎日怒られてると思うよ(笑)。汚いところ見つける天才だから。社宅でも個人の家でも庭が整備されてないと「ちゃんと整備しろ!」って怒る人だった。日本だと人の敷地のことには口を出さないけど、たとえばアメリカでもニュージャージーなんかだと「生け垣は何センチ」とか決められてるの。だから、隣の家の生け垣が伸びてると文句を言う。ドイツなんかも同じ。そうやってみんな自分の義務を果たして街をつくっている。

——街に対する責任ということですね。

舩木 だから、子どものころの清里の風景ってすごく心に残ってる。大草原が広がってて、線路のところから清泉寮までずっと石垣が積んであって。昔はSLが走っててさ、小海線の急勾配を登るためにガンガン石炭を焚いてたわけ。その火の粉が飛んでよく山火事になってたの。だから大きな木はなくて、草原が広がるツツジのキレイな景色が広がってたんですよ。ディーゼルになってから山火事がなくなってその景色は失われちゃったけど。結局人間って自分が過去に見たものに憧れるんです。ポール先生の場合なら、自分の生まれ故郷のケンタッキーですよ。牧歌的できれいなところで、だけどケンタッキーダービーがあったり、バーボンがあったり、田舎なのに文化がある。そういうところで育ったからオシャレだったんじゃないかな。俺の場合なら焼失する前の(清里の)清泉寮とか聖アンデレ教会。

——聖アンデレ教会は今もありますね。

舩木 あそこはロサンゼルス在住の日系二世が設計したんだけど、ものって調達できる材料の範囲でしかつくれない。当時の清里には地元の石しかない、丸太しかない、畳しかない、障子しかない、瓦しかない。だから、日本の素材だけでアメリカでのテイストの入ったデザインでつくられた。当時の日本の田舎で手に入るものだけでつくった建物なの。ほかにはない、ここだけのイメージだよね。

建設現場に立つ、ポールラッシュ博士とスタッフ

——日本の田舎でありながら、アメリカの文化が溶け込んでいるわけですね。

舩木 しかも、ポール先生が徹底的にきれいにしていた。だから、基本的に田舎であってもどんなVIPでも受け入れられるんですよ。たとえばポール先生のところにはいろんな人が来た。ロックフェラーみたいなアメリカの財閥と呼ばれる人も来てたし、ピーター・ドラッカーみたいな人も来てた。俺は当時全然知らなかったけど、十何年か前にピーター・ドラッカーにハマって、そのことをポール先生の秘書だった人に言ったら「何言ってんの。あんたが子どものころに来てたでしょ、ドラちゃんって呼んでたあの人がピーター・ドラッカーよ」って(笑)。子どものころに会ってたんだ。

——ふしぎなルーツを持つ土地ですよね、清里って。

舩木 うん。もともと80年前はただの荒野だった場所だしね。すごく田舎で都会の最先端の情報からは離れているんだけど、ポール・ラッシュという人がいたから、その時代の先頭を走る人ともつながっていた。で、そういう人たちを迎えるときも、失礼と思う必要がないんだよね。きれいなんだから。田舎だけどどんな人が来てもステキだと思うでしょう。で、そこで生きている人が自分たちの土地に誇りを持つ。それが大事だったんじゃないのかな?

——ポール・ラッシュ博士の「Do your best and It must be first class(最善を尽くし、一流であれ)」という言葉に通じる話ですね。

舩木 うん。一流っていうのは別に高級ブランドを持つとか、高級車に乗るとか、そういうことじゃないんじゃないの?

「食うための作業」じゃ何も楽しくない

——そんな幼少時代を経て、大学を中退してROCKを立ち上げるわけですね。大きな決断ですよね。

舩木 やりたいと思ったらやっちゃうんだ。俺みたいに学歴も中途半端、家柄も中途半端だとそこで自分で自分を枠にはめちゃったりするでしょう? たとえば、萌木の村にはオルゴール博物館があるわけだけど、俺はオルゴールの知識もないし、音楽の知識もない。その歴史も知らない。普通そういう人はオルゴールを集めようと思わないんですよ。

初代ROCK店内にて

俺はそれを持つのにふさわしくなくても、気に入ったらほしいと思っちゃう。枠や壁がないんです。それはポール先生のもとで育った影響だと思う。先生は「最善を尽くして一流をめざせ」「誰でもできる」って言うから、「俺でもできる」ってこう思っちゃったわけで(笑)。みんなできるんだよ。

——そういう意味では今の若い人たちには物足りなさを感じたりしますか?

舩木 今の若い人はかわいそうだと思うよ。生まれたときから何でもあって、チャレンジしなくても生きていけちゃう。俺は運がいいことに貧しい時代、貧しい環境に生まれたからものすごく充実感があった。最初にROCKをつくったときも楽しかったし、清里フィールドバレエ(萌木の村で開催されている夏の野外バレエ公演)をはじめたときもものすごい喜びがあった。これが大企業の社長の家に生まれたりしていたら、フィールドバレエなんかやったってたいした喜びはないよね。

初代ROCK

——大企業だったらチャレンジとはいえないですもんね。

舩木 俺はスペシャルオリンピックスっていう知的障がい者のスポーツ組織に関わってるんだけど、そこに参加する子どもたちを見ていると本当にそう思うよ。たとえばスケートで25m走る競技があるわけ。健常者だったら初めてでもできちゃう。でも、重度の障がいを持った子にはものすごいハードルだったりする。この間も立ったまま歩けなくてそのまま失格になった子がいたの。でも、スペシャルオリンピックスでは予選で失格になっても本戦に出られる。それで本戦でゆっくりゆっくり、コースの端を伝いながら進んでいく。みんながゴールしたときにその子はまだ少ししか進んでない。でも、会場はみんなその子を応援する。で、ゴールにたどり着いたときその子がガッツポーズをするわけ。みんな涙だよ。スペシャルオリンピックスはオリンピックに出場経験のある選手なんかも関わってるんだけど、みんな同じことを言うんだ。「僕たちはオリンピックとかに出て、選ばれた人たちのなかで勝つことが目的だった。スペシャルオリンピックスに関わって初めて、勝つことではない喜びというものを手に入れた」って。選ばれた人でなくても、すべての人がそういうものを手に入れることができるんです。俺も田舎に住んでるとか、会社が小さいとか、学歴がないとかそういうことと関係なく、あらゆる人間が人生の喜びを味わうことができると思ってるわけ。そういう喜び、充実感みたいなものかな?それを手に入れるのが俺の人生の目的なんだよ。だから、今の時代って不幸だと思うよ。

——豊かな分、喜びを見つけるのが難しい。

舩木 うん。だってさ、開拓時代って貧しかったけど、ひとくわひとくわ開墾するごとに、「来年はここに畑ができて野菜が採れる」とか、夢が広がっていったわけでしょう? ポール先生も「清里のために」なんてよく言われるけど、別に苦しむために清里に来たわけじゃないんだよね。あの人は別の仕事だってできただろうし、そっちの方がよほど儲かったかもしれない。わざわざ清里なんて何もないところに来る必要はなかった。でも、だから面白かったんでしょう。ポール・ラッシュが一番楽しんだと思うよ。考えてみればアメリカ人のなかにいれば小柄でハゲでさ?それがここに来ればみんなに「ポール先生!」「ポール先生!」って呼ばれて、そして周りの人たちがどんどん育っていく。こんな楽しいことないよ。

——どんどん変わっていくのを楽しめた。

舩木 そう。今の時代、自分の今やっている仕事が来年にどうつながるってみんなわからずに働いてたりするんじゃない? 毎日仕事に追われてるだけ。「食うための作業」だな。そうなっちゃったら何が楽しいのよ?

リーダーは一番楽しまないといけない

——確かに仕方なくやる、作業のように働く人も多いと思います。

舩木 そりゃツラいよね。でも、だから上に立つ人間が苦しいなんて言っちゃダメなの。

——弱音を吐かないということですか?

舩木 いや、そうじゃなくて。苦しいならやめろってこと。ほかの人は別ですけど、リーダーになる人間はどんな状態でも楽しまなきゃいけない。ボランティアでも「やらなきゃいけない」って義務感みたいなものでやっている人がいるけど、それを押しつけられるのは違うじゃない。本人はマジメだから「やる」「みんなやれ」って言うんだけど、みんなそれぞれ事情や能力がある。義務感でやられたら誰も幸せにならないでしょう?だから、借金でも何でもそうなんだけど、「苦しい」と思ったらそいつはもうリーダーの資格がないと思う。周りと比べて苦しかろうが、そいつが楽しんでるからリーダーなんだよ。ただ、田舎の中小企業ってなかなか人が集まらないから、そうじゃない人がリーダーのポジションをやらなければいけなくなったりする。それがツラいところだよね。しかも、日本の場合は肩書きがステータスだと思ってる人がまだ多い。

——年功序列というのも根強いですしね。

舩木 でも、能力以上のポジションをやるのはその人にとって不幸なんじゃないかな? 俺は自己イメージと他人のイメージがイコールになるのが一番幸せだと思ってるの。障がい者もそうだけど、自分の子どもがどれくらいの障害か、オープンになっちゃった方が楽なわけ。能力を隠しているのは本人も親もツラいと思うの。それがオープンになると親もいろんな話をしてくれる。隠し事がなくなるとすっごく楽ですよ。ポール先生はたぶんそういう環境づくりがすごくうまかったんじゃないかな。それで初めて対等な関係になる。仕事の時はさ、命令系統や上下関係ってあるけど、それは仕事のときの作戦なわけ。仕事でないときまで上下関係なんてものがあるのは窮屈だよ。

——むしろその方が伸び伸び仕事ができますよね。

舩木 そうそう。(2016年に)ROCKが火災になったのはひとつのきっかけになったと思う。ROCKも外から見れば面白そうに見えるかもしれないけど、もう中に入ってみると偉そうな爺さんたちがいっぱいいて、もうガチガチだったの(笑)。それで若い人たちも辞めたりしてたんじゃないかな。中小企業ってだいたい30年くらいで潰れたりするでしょ。

——1代限りというところは少なくないですね。

舩木 最初はみんな若い時期に立ち上げて、親分肌の社長についていってがむしゃらにやるんだけど、少し大きくなると若い子が入ってくる。それで、昔のやり方についていけなくて不満を言うんだけど、昔からいる連中が「これだから今の若い奴は」なんていってさ、結局若い子が辞めていく。それでも自分たちが若いうちは自分たちが頑張れるからいいんだけど、やっぱり若い人が去っていく。それで結局、文句を言わない「いい人」しか残らない。ガチガチで変わらない会社になっちゃうよね。俺はいつでも変えたいんだ。いくつになっても変えたくて仕方がない。変えた方が新しい景色が見られるからね。

——世代交代、変化は難しいですよね。

舩木 でも、最近は俺も大人になって(笑)、変えたくない中間管理職の人たちにも感謝するようになってきたよ。昔は変わりたがらない人たちを否定してたんだけど、今は「そういう人たちがいたからここまで来たんだ」って思うようになった。「そういう人たちがいたからここまでしかできなかった」という側面もあるんだけどね。でもいずれにせよ、若い人たちはどんどんチャレンジして欲しい。火災という変わるきっかけがなかったらもっと苦労していたと思う。若い人たちが前に出るきっかけになった。

火事後、三代目萌木の村ROCKの店舗前では、ショベルカーを運転する姿も

——ROCKは今、若い世代が元気だという印象があります。店舗再建も、その後のいろいろなイベントも若い世代が中心になっている。

舩木 若い世代には抜かれるものなんだよ。リーダーって自分が誰より優秀でないといけないと思っている人がいるんだけど、そんなことない。ちゃんと人にまかせれば自分も楽なのに、抱え込んじゃったりしてさ。優秀な人にまかせられれば、自分の好きなことができるじゃん。まあ、そういう変化も楽しんじゃわないとね。

——ありがとうございました!

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