「誰でもポール・ラッシュになれる。それを伝えなければ人物顕彰館には意味がない」
ポール・ラッシュ記念館・秦英水子さんに聞くポール・ラッシュ

「清里の父」と呼ばれる人物のひとり、ポール・ラッシュ博士。萌木の村のルーツにも深くつながる人物です。

「Do Your Best and It Must Be First Class(最善を尽くし一流たるべし)」という理念をはじめとした、ポール・ラッシュイズムは今も清里のさまざまなところに受け継がれています。同時に、偉人として語られるポール・ラッシュ像が大きくなり、その実像やどんな人物だったかを知らない人も少なくありません。

ポール・ラッシュ記念館の学芸員である秦英水子さんは、「もちろんすごい人だし、いろんな方が語るポール・ラッシュもすべてひとつの正解です。でも、同時にごく普通のおじさんでもある」と語ります。

今回は、そんな秦さんに萌木の村取締役の三上浩太が改めてポールさんについて話を伺いました。

「すごい人」で終わったら人物顕彰館の意味はない

三上 今日伺ったのは、改めてポール・ラッシュさんについて知りたいなと思ったからなんです。もちろん僕らはいろんな関わりがあるし、社長の舩木上次も大きな影響を受けているから、それなりに知ってはいる。だけど、僕はテンプレートみたいな説明はできるけど、なかなかそれ以上の強いものをつかめていないんじゃないかって気持ちもあるんです。特に若い世代だと名前ややられたことは一応知っているけど、詳しくは知らないという人も多いですし。

 山梨の人でも?

秦英水子さん。

三上 特に若くて北杜市以外の方はそんな気がします。

 なるほど〜。私のいるポール・ラッシュ記念館はポール・ラッシュの足跡や残した資料を展示している、いわゆる人物顕彰館です。ときどき学校の生徒さんなんかにも案内をすることがあるんですが、そのとき私がキーだと思っているのは、最初の来日のところなんです。ポールさんが最初に来日したのは関東大震災のときです。クリスチャンだった彼は、関東大震災で崩壊した東京と横浜のYMCA会館を再建するためのスタッフとして1925年に来日しました。そこから日本に愛着を持つようになって、大学の先生をしながらBSA(日本聖公会聖徒アンデレ同胞会)の日本支部設立に携わり、日本の学生、若者にキリスト教を布教する活動を行うようになっていったわけですね。いってみれば、日本に来たのは偶然なんです。関東大震災がなければ、そもそもポール・ラッシュが日本に来ることもなかったし、その後清里でいろんなことをすることもなかった。そうなれば、清里も今とは違った町になっていたでしょう。この「偶然日本に来た人なんだよ」という話をいつも最初にしているんです。というのは、人物顕彰館の意義と関わっていると思うからです。三上さんは人物顕彰館って何のためにあると思いますか?

三上 え、何だろう……? 普通に考えるとその人の功績とかを紹介することなのかなって思いますけど。

 そう。それもすごく大事なことです。でも、それだけだとただ「すごい人」で終わってしまう。私は、人物顕彰館というのはただ足跡や業績を伝えるだけでなく、次の世代につながる人を育てるための施設だと思っているんです。つまり、「自分たちにはとてもできないようなことをした偉人」でなく、「マネできるお手本」としてのポール・ラッシュを伝えないといけない。ポール・ラッシュについて書かれたものはたくさんあって、私自身も好きなんですが、そこで書かれるのはどうしても神様みたいなポール・ラッシュだったりする。もちろんそれも正しいんです。すごい人ですから。でも、同時にポール・ラッシュという人は一生涯、「自分の背中を見てついてきてほしい」という歩みをしてきた人でもある。日本で若いリーダーを育てるという活動をしてきた人ですし。「Do your best」という有名な言葉がありますよね?

三上 「Do Your Best and It Must Be First Class」。ポールさんのもっとも有名な心構えですよね。

 ご存知のとおり、この言葉はポール・ラッシュの恩師である聖路加国際病院のルドルフ・B・トイスラー博士から贈られた言葉です。これは自分自身が一流であるだけじゃなくて、そういう背中をみんなに見せなさいということでもあるんです。彼を追いかけて乗り越える人たちがいなければ、そこで彼の事業は終わってしまう。あとにつながる人材を育てることが彼の使命だったんです。だから、ここでも「ポール・ラッシュはすごい」で終わってしまったのでは私の仕事は一流じゃない。次の世代のポール・ラッシュを育てることが記念館、そして私の仕事だと思っています。だから、案内するときよく最初に「偶然来た、普通の人なんですよ」って紹介するんです。もちろんすごい人なんだけど、「マネできない超人じゃない」「誰でもポール・ラッシュになれるんだよ」って話をすることがあります。

ポール・ラッシュ博士。左端には幼少期の舩木上次の姿も。

三上 なるほど! そうやって目的と手段を明確にいってもらえるとすごくわかりやすいですね。

 実際ポール・ラッシュの足跡をたどるとすごく面白いんです。さっきお話ししたように日本に来たのも偶然なんですけど、清里に来たのも偶然ですから。

三上 戦前に清泉寮を建てたのが清里との最初の関わりですか?

 そうです。清泉寮はBSAのリーダーを育てるためのキャンプ施設でした。でも、ポール・ラッシュが最初に考えていた候補地は清里ではありません。山中湖周辺だったんですね。彼がキャンプ施設に求めた条件のひとつは富士山が見えることでした。ナンバーワンのものが見える場所で日本のリーダーを育てるぞ、ということですね。

三上 湖も重要だったんですよね。

 そう。アメリカではウォーターアクティビティっていうのはキャンプ場に絶対必要な要素なんです。だから最初は山中湖のあたりだった。でも、当時は戦前でしょう? 今よりも外国人が珍しい時代でしたしね。山中湖周辺は国定公園内で、しかも外国人に貸すなんてことは難しくて、山梨県は土地を貸す許可を出さなかったんです。そのときにたまたま泊まったのが甲府の談露館というホテル。そこのご主人が「ちょうど小海線が開通したばかりの清里というところに、美し森というきれいなところがある。あなた方の求める富士山も見えるから行ってみるといい」と紹介されたんです。それで秋ごろの時期にポール・ラッシュは清里にやってくるんです。その日は霧が出ていたんですが、美し森を登っていくとだんだん霧が晴れてきて、富士山をはじめとした山々が目の前に広がっていった。そこで「ああ、ここだ」と感じて清里に合宿施設、後の清泉寮をつくることを決めたんです。

三上 まさに偶然ですね。談露館に泊まらなければここには来なかった。

往時の談露館。談露館は佇まいを変えつつ現在も甲府に残っています。

 そう。さらに、深い霧が晴れていくというドラマチックな演出も加わった。キリスト教的にいえば「Calling」、つまり神の啓示が降りるような体験だったんでしょうね。関東大震災がなければ、談露館に泊まらなければ、霧の日でなければ、どれが違っていても清里は今とは違う姿になっていたと思います。もちろんポール・ラッシュひとりが清里をつくったわけじゃなく、安池興男さんをはじめ、いろんな方がいて今の清里ができているわけですけど、少なくともポール・ラッシュがいなければ、今とは違う清里になっていたでしょう。ポール・ラッシュの足跡をたどると、偶然によって自分自身だけじゃなく、まったく知らない土地の運命を変えることがあるんだってことがわかる。誰もがそういう可能性を持ってるんです。

リーダーシップと「祈りと奉仕」

三上 実は僕自身もこの間、記念館にふと呼ばれた気がして来たんです。これから清里をどうしていけばいいのかって考えたときに、やっぱりポールさんという存在は重要なんじゃないかって思って。ここにヒントがある気がしたんですよね。

 きっとポール・ラッシュだったら今の時代に合ったことを探してやっていると思うんです。いわゆるポール・ラッシュイズムってあるでしょう? 私たちはよくそれを守ろうって話になるんですけど、なかには時代に即していないものもあると思うんです。そういうとき、ポール・ラッシュだったらどう変えていくだろうって考えたりします。今の清里だったらどうするだろうって。もちろん変えてはいけないものっていうのもあります。「Do your best」みたいな基本の理念は変えちゃいけないし、変えようがない。だけど、同時に時代に合わせてどんどん変えなきゃいけないこともあるはずなんです。ポール・ラッシュ自身、すごく柔軟な方で、時代に合わせて変わっていった。もし今の清里にいたら、全然違うことをやっている気がします。コアとなる理念を変えなければブレはないと思うんです。

三上 「Do your best」みたいな理念は今も変わらないですよね。

 「祈りと奉仕」なんかもそうですよね。これはBSAの精神的支柱なんです。キリスト教的にいえば「お祈りして、実際に行動して、お祈りして、皆様に奉仕(サービス)して、またみんなでお祈りして」という繰り返しのことです。ただ、あえて宗教的な意味を離れてリーダーシップトレーニングという視点で考えても非常にいい考え方なんです。たとえばアメリカンフットボールで考えると祈りっていうのはハドルです。

三上浩太。

三上 ハドルですか。

 日本語でいうと「集合!」って感じですかね。みんなで集まって共通認識をつくる作業です。それで今度は奉仕(プレイ)。アメリカンフットボールは完全な分業制で、クォーターバックならクォーターバック、センターならセンターの仕事が決まっているんですね。それぞれがそれぞれの特性に合わせて役割を持っている。アメリカンフットボールに限らず、みんな得意なことは違うでしょう? それぞれが持っている能力をもっとも開花する場所で発揮するのが奉仕なんです。それでまた集まって結果を見る。そして再び行動をする。「祈りと奉仕」ってそうやって上昇サイクルをつくる考え方なんです。ベーシックだけどやってみると意外といい方向に導いてくれる思考回路なんですよ。

三上 素晴らしいですね。

 ただ、これをやるにはみんなにリーダーシップが必要なんです。日本では混同されがちなんですが、リーダーとリーダーシップって別なんです。ポール・ラッシュのリーダーシップっていうのは米軍、特にアーミーのリーダーシップに近いものなんですけどね。リーダーというのは絶対なんです。リーダーが右を向けといったら右を向かなきゃいけない。だけど、リーダーシップはそれぞれが取っていいものなんです。それぞれが自分のやりたいことをちゃんといえるし、自分の持ち場でそれを実行するし、人々を巻き込んでいける。それがリーダーシップです。これはリーダーだけでなく全員が持っていないといけない。軍でいえば、リーダーは絶対だけど、たとえば戦場でリーダーが負傷して指揮を執れなくなることもあるでしょう? そうすると交代することになる。そのとき、リーダーシップを発揮したことがない人ではリーダーを務められないでしょう?

三上 そういうリーダーシップと「祈りと奉仕」が今の萌木の村には必要とされてますね。

 そう。リーダーシップと「祈りと奉仕」はセットなんです。同時に強いリーダーも必要になる。たとえばここでいえばポール・ラッシュというリーダーがいたからできた。みんなを巻き込む、その責任を取るという覚悟がある人がいることが大きいんです。社長さんというのもそういう存在ですよね。社員全員の人生を背負わないといけない。そういう意味では社長業って非常に孤独で大変だなって、ポール・ラッシュを見ていても思います。だから、リーダーは誰でも簡単になれるものではない。でも、誰でもなれるんです。そこが面白いところなんですよね。

「外国人」が「地域に根ざす人」になるまで

三上 ポールさんの場合は、そういう重圧に加えて外国人、一種の「よそ者」だった。そういう人がどうして地域のリーダーになれたんでしょう?

 本当の意味で地域のリーダーだったかというのも難しいところなんですけどね。もちろんリーダーのひとりではあったと思いますが、あらゆる人がポール・ラッシュをリーダーだと思っていたわけでもないでしょうから。ポール・ラッシュ自身も難しさは感じていたと思います。そのなかでどういうふうに受け入れられていったかというのがわかる場所があるから、そちらへ行ってみましょうか。私たちは賞状の部屋って呼んでいる場所です。

三上 賞状の部屋ですか。

 (移動しながら)こちらです。ここにはいろんな賞状が飾られているんですが、私たちが特に注目しているのは感謝状です。地域、自治体からの感謝状がけっこうあるんですよ。この賞状を見ていくと、時代ごとにポール・ラッシュが地域にどんなことをしていったかわかるんです。今ならとても感謝状をもらえないようなものもあります。たとえば、ブルドーザーを出してくれてありがとう、とか。今ではブルなんて珍しくもないでしょう? でも当時は貴重だった。ほかにも、牛乳を八ヶ岳の分教場に毎日無償で届けていた時代がありました。まだ全国的には脱脂粉乳の時代に、ジャージー牛乳が毎日届くというのはすごいことだった。栄養価が違うし味も違う。それから病院を建ててくれてありがとう、とか。要は地域が求めていたけど、行政がやりたくてもなかなか間に合っていなかったことを、ポール・ラッシュは与えていった。そうやって地域に受け入れられていったわけです。さっきおっしゃったように、外国人は珍しかったでしょう。しかもポール・ラッシュの場合は宗教というベースもあった。ちょっとしたふしぎな人たちがやってきたと思われててもおかしくないし、実際そう感じていた人もいたと聞きます。戦後、最初にジャージー牛をもらったときにも面白い話が残ってるんです。ポール・ラッシュはまず雄牛をプレゼントしていただくんですね。種牛がいないと農場が広がらないから雄牛の方が値段も高いんです。それで一冬越せれば翌年雌牛を送ってもらえるという約束で、実際次の年に7頭の雌牛と1頭の子牛がやってきてキープ農場は本格的にスタートしました。だけど、雄牛は当然牛乳を出さない。だから最初の一年目は、「なんであの外国人は雄牛なんか貰ってきたんだ」って言われたって話が残ってます(笑)。事情を知らない方からは「何してるんだろう、あの人」って思われてたのでしょうね。

賞状の部屋と呼ばれる一室にはさまざまな感謝状が残されています。

三上 地域の人たちが求めるものを見つけていったんですね。

 ほかにも部屋を見ていくとポール・ラッシュのいろんな側面が見えてきますよ。この奥には寝室があります(移動しながら)。ここには子どもたちからの贈り物も残されています。これは清里聖ヨハネ保育園に通っていた地域の子どもさんたちがポール・ラッシュを描いたものですね。

寝室に残された、子どもたちからのプレゼント。ポールさんの似顔絵が描かれています。

三上 これ、いつごろのものですか?

 えっと……1975年です。表紙に「to our Grand Father Paul san(わたしたちのおじいちゃん ポールさんへ」とあって、この頃にはもうみんなにとってのグランパになってたんですね。それと、タンスにパジャマが残ってるんです。もちろんそれ1枚だけではないんですけど、残っているものを見ると、横の部分を3〜4回縫い直してるんです。それを見ると、自分のためにはあんまりお金を使ってないのかなって。ポール・ラッシュってペースメーカーも入れてたんですよ。

三上 当時もうペースメーカーがあったんですね!

 はい。70歳の時に手術されているので10年以上使っていました。でも、ペースメーカーの手術をするときも、ご自身のためにお金を使うことをよしとしないので、最初は入れないといっていたんです。職員が「お願いだから受けてくれ」といって、募金を集めて受けてもらったなんて話も聞きますね。この建物自体もそうです。ここは一見すると豪奢じゃないですか。でも、それは迎賓館としての役割を持っていたからで、お客様を迎える空間は立派なんです。だけど、これだけ広い家で、純粋なプライベートな空間はこの寝室くらい。それって自由があまりない感じがしませんか? 常に仕事ができる環境になっていて、もしかしたら寝室もただ寝るだけの空間だったのかもしれない。そんなふうにも思える。外で着るスーツや帽子も立派なものがあります。でも、写真を見ると同じ服を着倒してたりするんですよ。立派な服を着て、豪奢な建物に住んでいるけど、倹約倹約という感じで質素でもある。その二面性があるんです。それも見せるべき背中のひとつだったのかもしれません。無私の奉仕というんですかね。吉田茂さんなんかも同じような感じだったといいますし、昭和の傑物というのはそういうものだったのかもしれないですね。

記念館に展示されているポールさんのスーツ。立派なものですが、実はテーラーメイドが多かった時代にプレタポルテ(既製服)を購入していました。そんなところにも倹約の精神を感じます。

ポール・ラッシュイズムと普通のおじさんとしてのポール・ラッシュ

三上 ポールさんといえばホスピタリティの話も必ず出ますよね。そういう部分はホテル経営をやりたかったとか、そういうところから習得したことなんですかね?

 うーん……私はホスピタリティは彼の天性かなって思います。たとえば居間や執務室を見て、物がすごく多いと思いませんでしたか?

三上 はい。

 あれは今、展示という意味で当時より多かったりもするんですが、もともとすごく多かったんです。なんであんなにたくさん物が飾ってあるのか、秘書だった人に聞いてみたことがあるんです。そうすると、「お土産をくれた人が次に来たときに飾ってないと悲しむから飾ってた」というんですね。それもホスピタリティですよね。喜ばせることが彼のなかで生きがいだったんでしょう。今では考えられないんですけど、時々従業員とポール・ラッシュが清泉寮に泊まったお客さんといっしょに食事してたんですって。いってみればスタッフがいっしょに食事するんですよ? 今ではもちろんそんなことありません。でも、当時はアットホームな感じを伝えるために、「ウェルカムですよ」って感じでいっしょに食べることがあったそうです。もしかしたら私たちが考えているホスピタリティとちょっと違うのかもしれないけど、ポール・ラッシュのホスピタリティというのは相手がどれだけ喜ぶかにかかってるんですね。あと、性格でいうとちょっと寂しがり屋だったっていうのも聞きます。

居間にはいろんな方から贈られた品が数多く飾られています。

三上 そうだったんですね。

 ポール・ラッシュもちょっとした勘違いでスタッフを怒ってしまうこともあって、そういうことがあるとスタッフも機嫌が悪くなるじゃないですか。そうすると、あとでご機嫌を取りに来てくれたりするって聞きます。感情が豊かなんだと思います。それから、とにかくきれい好き。

三上 それは本当によく聞きますね。うちの社長も必ず話します。

 とにかく「掃除しろ掃除しろ」「キレイにしておけ」と言っていた、と。当時、ポール・ラッシュがいろんなところをチェックするわけです。たとえば最初はレストランでワーッと怒って次の部署に歩いて行くでしょう? その間にレストランのスタッフが次の部署に内線で「台風が行くぞ!」って伝えたりしてたそうです(笑)。それで一斉に片付けをする。今ポール・ラッシュがいたら私なんて毎日怒られていたでしょうね(笑)。掃除はもちろん、身支度でもきれい好きだったそうです。寝室にはグルーミングセットがあって、常に爪をきれいに整えていたとか、病床でも人が来るときは必ず櫛を通して身なりを整えて迎えたとか、そんな話を聞きます。それもホスピタリティのひとつだったんでしょうね。相手に不快感を与えないようにすごく気を遣っていた。

居間には象のオブジェも。実は象はアメリカ・dのシンボル。口に出さなくてもそっと自分の支持政党を伝えられるようにしてあったんです。

三上 それってたぶんお金を集めることなんかにもつながっていることですよね。資金集めで厳しい経験をしていたから……。

 そうです。ポール・ラッシュのたずさわった事業にはたくさんの寄付金が必要でした。聖路加国際病院をつくるときなんかはとにかくしんどかったようです。もちろん清泉寮もそうだし、清泉寮のランニングの資金もそうなんですけどね。「乞食のような気分になるようなことがあった」という言葉が残ってるくらいですから、本当にツラかったんでしょうね。日本のために資金を集めるわけですけど、アメリカのすべての人が日本に好意的なわけではない。アウェイに行って説得するわけです。ちゃんとしていないと信用してもらえない。身なりを整えて、その街で一番いいホテルに泊まって、一番いい部屋じゃなくてもいいけどちゃんとしたお部屋に泊まってお客様をお迎えする。それがトイスラーさんの教えでもあったわけです。

三上 まさにポール・ラッシュイズムという話ですね。

 同時に、資料を見ていくとすごく人間らしい部分も見えてくるんですよ。たとえば、ポール・ラッシュさんにインタビューしてまとめられた、彼自身が原稿をチェックしたとされている伝記があるんですが、そこで明らかに盛っている部分があるんです。それがお父さんの職業。そこでは地質調査員って書いてあるんです。でも、彼のお父さんは肉の商店主なんです。彼にとってそれが誇るべき職業じゃなかったのかもしれないっていうのが、そこから感じられる。そういうところを見ると「あ、ポール・ラッシュも普通の人だな」って思うんですよ。そういうふうに残された事実と違うことがポロポロあるんです。それが面白くもあり、人間らしいなと思うところですね。

清里の新しい「祈り」は何か?

三上 ポールさんは戦後、日本の復興のために清里で新しい農村モデルを確立する活動を始めますよね。

 はい。ポール・ラッシュが打ち出した柱は4つです。まず「食糧」「保健」「信仰」。この3つが揃って初めて「青年の希望」が生まれるというモデルです。

三上 今から振り返るとそれは成功した。だから、すごく正しいし、明確だったように思えます。だけど、ポールさんは当時からこの方法論に迷いはまったくなかったんでしょうか?

 あったと思いますよ。常に迷っていたかもしれない。キープ協会の門柱なんかはまさにそれを体現していますよね。「我、山に向かいて目を上ぐ 助けはいずこより来たるか」って書いてあるんですね。苦境中の苦境ですよね。山をあおいで神様お助けくださいと祈っている。それだけ孤独でもあるし、悩んでもいるし、常に不安でもあるし、誰か助けてって思っている。事業だって成功ばかりじゃない。キープ協会はこうして残っていますけど、キープと同じようなものを北海道につくろうとした計画は頓挫しているし、九州につくる計画もあったけれど実現できなかった。

三上 そのなかで青年の希望をつくり出すという理想は形になったわけですね。

 「食糧」「保健」「信仰」というのは明確だったんですよね。とにかく食べるものがなかったし、保健も整っていなかった。信仰も、戦争が終わってぽっかり空いていた。この3つというのはポール・ラッシュだけが思い付いてたかっていうとそうじゃなくて、彼が戦後所属していたGHQも考えていたことなんです。GHQはキリスト教的な民主主義で戦後日本を再興しようとしていたので、その点でも方向性が一致していた。その上で、「食糧」「保健」「信仰」をセットにして、この3つが揃うことで希望を持って生きていけますよ、というパッケージにしたのがポール・ラッシュです。そのプラン自体がよいし、そこに迷いがなかった。彼は生涯、若者に希望を与えるリーダーでしたから。同時にこれは当時アメリカから寄付金を集めるために非常に有効なパッケージでした。お金を集めるというのはすごく重要なことだったんです。とにかくキープ協会をランニングしていかないといけなかったわけですから。そのためにわかりやすいパッケージをつくる。その点に関しても、ポール・ラッシュは明確に長けていました。

三上 そのパッケージというのはいわば「祈りと奉仕」の「祈り」の部分ですよね。僕は今、清里をもう一度元気にしたいと思っているんですが、そのためにどうすればいいかっていう部分ではすごく悩んでいます。祈りの中身を何にするのかというのが重要な問題ですよね。

 おっしゃるとおり、そこが一番のポイントかもしれない。今の時代に私たちがそのパッケージをどうつくるかというと、私もいつも迷います。何に祈るのか、というのは実は漠然としている。だけど、キーはいっぱいあると思っています。たとえば、観光地として元気にするなら、観光のための何かをセッティングする必要がある。後継者がいないことが問題なら若者が出ていかない仕組みを考えなければいけない。どこかにフォーカシングしていく必要があるでしょう。

三上 結果的にそのどれかを選ぶことで、両方がうまく回り始めるかもしれない。

 もしかしたら、「清里らしさ」というのが何かを考えると答えになるかもしれませんね。中にいると自分らしさってなかなかわからなくなる。何でしょうね、清里らしさって。最後に大きな宿題をもらった気分です。清里をどうしたいか……何をコアにするかって宿題をドーンと。

三上 でも、秦さんにお話を聞けてよかったです。僕は清里をどうすべきかって考えて、言ってみればポールさんに助けてもらおう、答えを探そうと思ってここに来ていたんです。でも、秦さんのお話を聞いたら、答えやゴールなんてなくて、自分たちで考えていくしかないんだって改めて思いました。コアの部分は受け継ぎつつ、今の時代の清里の答えを考えていくのが僕らの役目なんだなと。今日は本当にありがとうございました。

前の投稿
「今いる場所で咲かないのってもったいな…
戻る
次の投稿
「北杜市は食材にも人にも恵まれた街」 イ…

ROCK MAGAZINE ROCK MAGAZINE