「次の世代は『舩木』という名前にこだわる必要はない」
舩木良の息子・舩木功インタビュー

ROCKの創業者・舩木上次の弟である舩木良。ROCKの店頭でもおなじみの彼ですが、実は娘の舩木章子に加え、息子もROCKで働いているんです。

それが現在32歳の舩木功。ショップやレジなどで見かけたことがある人もいるのではないでしょうか。

実は彼が萌木の村で働くようになったのは最近のこと。高校卒業後、音楽をやりながら10年以上東京で過ごし、少し前に萌木の村に帰ってきました。

「ROCK生まれ」ともいえる彼の考える、自分の役割は何なのか、改めて聞いてみました。

東京で過ごした音楽生活

——功さんは良さんの息子さんなんですよね。

そうですね。なんですけど、息子ってだけでそこから何かいろんな話が広がるってわけでもないんですよ(笑)。基本的には別の人間ですから。

——そうなんですか?

舩木功。

親から「ここの仕事を継げ」と言われたことは実はないんです。けっこう自分の選択に任されていた。ただ、店の手伝いとかは当然のものとしてありましたから、そういう意味での関わりは長いといえるかもしれませんね。夏の忙しい時期なんかになると、小学校とか中学校時代から手伝いに駆り出されましたから。そこは僕に決定権はないです(笑)。自分で言うのも何ですけど、僕はそんなに悪い子どもじゃなかったので、あんまり親に怒られたこともなかったんです。でも、夏休みに遊んでたときだけは怒られましたね、けっこうガチめで(笑)。

——夏休みなのに?(笑)

「なんで手伝わないんだ」って。こっちは「え?」ですよね。「子どもが夏休みに遊んでてなんで怒られるんだ?」って(笑)。事前に「手伝え」って言われてたわけでもないんですよ。「当然手伝うだろう」って感じで。自営業では割とあるあるなんじゃないですかね。

——高校卒業後は何を?

進路は自由にさせてもらっていたので、東京の専門学校に進みました。ほら、あるじゃないですか、10代の「一度は東京に出てみたい」みたいなの。それで環境系の専門学校に入りました。清里で育ったからっていうのもあったんでしょうね。自然に触れる仕事に興味があって。でも、その学校でやったのは水質浄化とか……わかりやすくいえば下水処理とかそういう関係の勉強だったんですよね。森林保護とか生態調査とかのイメージだったので、自分の興味とはちょっと違って。なので、卒業後もその関係じゃなく、東京でフリーターをしながら好きな音楽をやっていました。

——バンドとかですか?

そうです。最初はバンドから始めたんですが、なかなか音楽って厳しいんで、ソロでやっている歌い手さんのバックバンドなんかを請け負いながら自分のバンドを続けている感じでした。そんな感じで10年くらい音楽をやっていました。

東京時代の功さん(左)。ロン毛です。

——その後、社員として萌木の村に戻ってきたわけですよね。長く続けた音楽をやめるっていうのは大きな決断だったと思うんですが、きっかけは何だったんでしょう?

やっぱり底が見えちゃったんですよね。自分の底が。20代のころはいい意味で自分を知らない。自分の可能性がわからないんです。で、中途半端にどこかで評価されちゃうと「俺、けっこうイケるんじゃない?」って思っちゃう。よく言えば夢が持てる。だけど、それで続けていって30歳くらいになると「これ以上はいけないんじゃないか」っていうのが見えてしまった。自分のまわりにもすごい人たちっているんですよ。だけど、そのすごい人たちですら、一般的な知名度があるとはいえない。たとえばミュージックステーションみたいな番組にバンバン出ているような人たちではないんです。そう考えると自分の限界が見えてしまった。それで「音楽をやめよう」と。30歳を過ぎて、マジメにやるなら今がギリギリのタイミングだろうと思ったんです。

火事のときにも何もしてあげられなかったという思い

——音楽をやめて東京で働くというのは考えなかったんですか?

それはすごい迷いました。東京って便利ですから。こっちだとコンビニだって遠かったりするし、映画館とか娯楽も少ない。どこに行くにしても車で30分、1時間となるじゃないですか。働くにしても東京の方が安定が見込める。戻ってきて家の仕事である萌木の村で働くといっても、なまじ自分の家のことだからいい時期も悪い時期も知っているし、今後一生続けられるのかという不安も感じちゃうんです。

——実家の仕事っていうのがまた距離感としても複雑ですよね。

そうなんです。ちょうどROCKが火事から復活して新体制になるころだったので、入らせてもらうにはいいタイミングではあったんです。でも、ほかの人が社員として入ってくるというのと僕が入るのではやっぱりちょっと違うじゃないですか。普通の人なら「入ってみたけどちょっと合わないな」って思ったら辞めて転職すればいい。もちろん僕だってそうできるんだけど……

現在はショップやレジにいることが多いです。

——ちょっと微妙な関係ですよね。

そうそう(笑)。どこかに「入った以上辞めたらあかんでしょ」っていうのがある。しかも、なまじよく知っているところだから「転職して新天地!」みたいな感覚もないでしょう?(笑) ただ、東京にいると踏ん切りも付かないんですよね。「やめた」といっても音楽時代のつながりは残ってるし、いろんなお誘いもある。それでズルズルとやってしまうのも未練がましいというか。区切りを付けるという意味では戻ってくるというのはいい選択だったんです。それに、今までここに何もやってあげられなかったという気持ちもあった。

——萌木の村に対してですか?

はい。叔父や父がつくった会社に……それこそ火事のときも何もできなかった。東京で生活しているときだって、なんだかんだで実家に支援してもらうこともあったんです。それで好きな音楽を続けていたわけですけど、「音楽をやめよう」となったとき、自分がやりたかったことは全部やりきってしまっていて、自分はからっぽだったんです。それなら、東京で無難な仕事に就くより、多少でも喜ばれるのであればこの会社に戻ってこようと決めたんです。

「普通の、32歳のダメなおじさん」として再出発

——それで萌木の村に戻ってきたわけですね。

はい。めっちゃロン毛のまま(笑)。ヘヴィメタとかうるさい系の音楽が好きだったんでそんな感じだったんです。東京時代はめっちゃ職質されましたね。「またですか。鞄のもの全部出せばいいんですよね?」って感じで、警察の人に「慣れてますね」って言われたりしました(笑)。

ロン毛時代(大事なことなので2回掲載しました)。

——ここで働くに当たって切ったんですね。

ここでもロン毛のまま働きたかったんですけどね。「いけるかな?」と思ってそのまま面接受けたんですけど、ダメでしたね(笑)。まあ飲食店ですから清潔感が大事というのもわかるんですけど、でもやっぱりちょっと頭固いなとも思いますよ。今いろんな価値観が共存する時代じゃないですか。「ロン毛だからダメ」っていうのは合わない。たとえば、タトゥーとかをしている人だっているわけです。「それだけで危ない人」みたいな偏見はよくないでしょ?

——むしろ創業当時のROCKなんかには髪長い人いそうですよね(笑)。

そうですよ。お店の名前からして「ROCK」なんですから。

——実際戻ってきてどうですか?

働きやすいし、スタッフもいい子が多いです。ただ僕は32歳と、年齢が年齢でしょう? 今若い子も多いからそこは心配でしたね。「10歳くらい違う! どうしよう!?」って(笑)。

——しかも、創業家の親族というのもありますもんね。

そうそう。どういう感じでいけばいいか……。だから、最初に「年も上だし、名前も『舩木』って付いちゃってるけど、気は使わないでください」とよく言ってました。「普通の、32歳のダメなおじさんが入ってきたと思って扱ってください」って。おかげで今はむしろ尊敬ゼロですね(笑)。雑に扱われてます。

後輩にも気軽な感じで話しかけられています。

——(笑)

あとは改めてROCKって忙しいなって思いました。僕も東京でいろんなお店を経験しましたし、有名店でも働きましたけど、ここまで忙しいお店はありませんでした。ダントツですね。別のお店に行った元スタッフの人に聞いても「ROCKが一番忙しかった」って言いますから。ただ、そういう忙しい前線で働くのは自分に合ってるなと思います。

——一方で社員という形で働くなかで、現場だけ見ているのとはまた違う視点も生まれたんじゃないですか?

それはあります。スケジュールを見たり、最終的にはお店の数字も見るわけです。昔バイト的に働いていたときは社会経験になるし、お金ももらえるからって感じで、ある意味自分のプラスになる楽しみという感じだったんですけど、今はやっぱり必ずしも楽しみだけじゃなくなってくる。

——数字ってヘビーですよね。

本当にそう。「今日すごい忙しかった! ヤバい!」って日も、数字を見ると「あれ……?」みたいなこともある。僕、みんなといるときは「イエーイ!」って感じなんですけど、意外とネガティブなのでひとりになると考え込んじゃう。そこに関しては僕なんかは今まだノウハウもない。ただ、その辺含めて世代交代をしなきゃいけないんですよね。

「舩木」という名前にこだわらず働けばいい

——功さんはまさに世代交代を担う存在ですよね。

いや、ただ世代交代はしなければいけないんですけど、父や叔父(創業者である舩木上次)の持っているものをまるごと全部受け継げるかといったらそうじゃないと思ってます。たとえば、あの人たちは謎だなと思うような人脈があって、火事のときなんかもすごくたくさんの方たちに助けていただいたじゃないですか。でも、「息子です」と紹介されたからといって、僕が急に「助けてください」っていって助けてもらえるようになるわけじゃない。萌木の村に入るときも父(舩木良)のような関係性を引き継いでほしいと言われたんですけど、それは無理ですよ。

——親子でもできることって違いますよね。上次さんや良さんにできて自分にできないこともあるし、上次さんや良さんにはできなくて自分にできることもある。

そう。あの人たちの才能や能力って、勉強して身につくようなものではない。人柄みたいなものでもありますから。むしろ僕は彼らにできなくて、自分にできることを頑張っていくしかないと思っています。これは音楽をやってきたなかで気付いたことでもあるんですが、僕は自分が中心になるより誰かをサポートして役割を果たす方が向いている。だから、バンドよりも歌い手さんのバックバンドをする方が合っていた。自分自身がうるさい音楽が好きでも、ポップなナンバーをやると言われたらちゃんと合わせることができるんです。まあ、基本的に頭が悪いんでしょうね(笑)。

——いやいや(笑)。チームのなかで役割を見つける方が合っている、というタイプもいて、それも重要だと思います。

そういう意味では「舩木」という自分の名前は気にせずに仕事をやったらいいのかな、と思っています。幸いここには若くて有望なスタッフがいますから。世代交代というときも、「舩木」という名前にこだわる必要はない。そのなかで、若い人たちをうまくつないでいくのが僕の役割なのかなと思っています。若い子たちってよくも悪くもやっぱり若いんです。職場に対してある意味では素朴な不満も持っている。それで辞めちゃう人もいる。だけど、萌木の村ってやりたいことをやっている若い人もいるし、やれる土壌もある。そこに気付いたら楽しくもなるし、変えていくこともできる。そうやって視野を広げるサポートをしてあげられたらいいなと思います。

——ちなみに、自分としてこんなことをやりたいということはありますか?

小さいことですけど、ROCKスタッフのバンドを復活させたいですね。昔、まだ今みたいに大々的なイベントでなかったころのROCKの日(6月9日)では、スタッフのバンドがライブをやっていたりしたんです。「ROCKバンド」って名前で。僕も東京から戻ってきて参加したりしてました。火事のときに機材も焼けてしまってなかなか練習もしづらいですけど、今音楽できるスタッフもいるので、どこかで復活させたいなと思ってます。

——「ROCKバンド」は愛着を持ってるスタッフもけっこういます。復活できたら嬉しいですね!

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