「ROCKとの出会いがなければ、お店をやろうなんて思いもしなかった。」
—ROCK50 年の歩み③白倉徳三—

ROCKの歴代店長へインタビューをする、「ROCK50年の歩み」。前回は畠見清に話を伺ったが、次の店長が誰か分からずじまいだった。前回の取材から時間が空いてしまったが、舩木社長をはじめ長年ROCKや萌木の村で働く人の証言より次の店長と思われる人物が判明した。第3回目は、舩木とともに初期のROCKを支えた白倉徳三。ROCKでのエピソードや舩木上次の人柄について伺った。

 

ROCKとの出会い

―ROCKで働くようになった経緯を伺いたいのですが、出身はどちらなんですか。

 出身は北杜市高根町で、実家は雑貨屋。僕はその家の三男坊だった。学生時代は東京の大学で映画の勉強をしていたんだけど、その頃は映画が斜陽の時代で、大映とか日活が倒産して映画産業が冬の時代だった。映画関係の仕事に就きたかったんだけど、就職できなかったんだよね。それで、就職浪人ってことで地元に戻って実家の手伝いをしていたところ、上次さん(舩木社長)に声をかけられて、ROCKで働くようになった感じかな。

―そうだったんですね。舩木社長に声をかけられるってことは元々面識があったんですか?

 帝京第三高校の同級生。だからROCKができた当初、僕はお客としてしょっちゅう来ていたんだよね。(当時の写真を見せながら)この辺の写真なんかは僕が撮影したね。趣味でカメラをやっていたからね。それで、今のROCKに資料として貸したりしているのね。

ROCKで働き始める

―当初はお客さんとしてですが、その後ROCKで働くようになったんですね。

 そう。上次さんから「ぶらぶらしてるんだったら、俺んとこ手伝ってくれない?暇しているなら来てくれー」って言われてね。それで働くようになったの。

―具体的には何年頃からなんですか?

 最近、老いぼれてきて昔のことだからなんともいえないけど、確か1971年から1973年の間まで働いたと思う。畠見さんとの入れ替わりで。畠見さんが辞めるってことで働き始めたの。だから、畠見さんとは一緒に働いていない。でも、よく知ってはいる。辞めた後、畠見さんは勤務先の清泉寮から遊びに来てくれましたからね。

ROCKで働いていた当時の白倉さん

―働いていた当時、ROCKはどんな様子でしたか?

 僕がいた頃は基本的にのんびりしていたな。観光ブームになる前だからね。夏は多少観光客も来るから通いのバイトさんもいたりしたな。地元、例えば長野県の野辺山や川上村とか清里周辺のお客さんが多かったね。地元の若い人がよく集まった。清泉寮からのお客さんもいたな。誰かの誕生日だってなるとすぐパーティーをやって。自動車の運転免許の試験に合格したとか何かとつけてパーティーやっていたな。昔は雪がかなり多くて、清泉寮からスキー板を履いて、滑ってお店に来た人もいたな。初代のROCKの建物は、今のように寒冷地仕様でなかったから、冬になると隙間風が入ってくるんですよ。上次さんと一緒に壁とかの隙間にガムテープを巻いていたなんてこともあった。

―いろいろな思い出があるわけですがROCKで働いていた時期は、白倉さんにとってどんなものでしたか?

 楽しかったよ。ROCKで働くまでは坊ちゃん育ちで地味に生きてきた。親父がすごく封建的な人で厳しかったから、ROCKで働いた最初、非日常的な世界という感じでとにかく楽しかった。ROCKに来て初めてバーボンウイスキーの味を知ったし、ロック音楽も知った。ただ、親父にはよく怒られましたね。「水商売みたいなところで働くな」って。あるとき、赤いネクタイをして帰ったらものすごく怒られましたね。

若者のエネルギーを発散する場だった喫茶店「ロック」

―当時は、若い人から見ると憧れはあるけど、年配者から見ると風紀が乱れるみたいな印象だったんですかね?

 そうかもね。とにかく親父が封建的な人だったから特に。

―ROCKで働いていて、特に印象に残っているエピソードはありますか?

 僕が働いていた頃は、上次さんが妻の洋子さんに熱くなっていた時期でね。当時はまだ交際中でしたが、ここ(写真を指しながら)に「I LOVE KEPE」って書いてありますよね。この「KEPE」って洋子さんの愛称だったんですね。普通に考えたら、やりませんよね?お店の外壁に「I LOVE KEPE」って書かないですよね。それがすごい印象的でしたね。

建物の壁に「LOVE KEPE」と書かれている。一番左が当時の白倉さん。

―お店に書いてあったんですね。

 なんで「KEPE」って言うのかは、僕は分からないので後で上次さん本人に聞いてね。それで、上次さんが熱くなっていて、夜にしょっちゅう洋子さんと電話をしていたんですね。その頃、洋子さんは東京にいて、会話でかみ合わない時とかどっちかの機嫌が悪くなった時に上次さんは心配で、「徳ちゃん、今から東京行ってくるわ」って言って、その日のうちに車をぶっ飛ばして洋子さんのところに行っていましたよ。その時、僕が店長というかマスター代理でROCKの切り盛りをしていた。だから、僕は正式にはROCKの店長って訳じゃないんですね。

―そうなんですか!てっきり、いろんな人の証言から白倉さんが店長だと思っていました。

 上次さんのいないときマスター代理な訳で、マスターは変わらず上次さんでしたね。

―そうだったんですね。話は戻りますが、昔のROCKでは、よくそこで出会って結婚する流れがあったようですね。

 僕もそうなんですよ。ROCKで働いていたから今の妻に出会えた。上次さんもそうだよね。洋子さんは最初、ROCKのお客さんだったから。結構、スタッフ同士だとかスタッフとお客さんで結婚したりとかありました。

―そうなんですね。知らない世界に触れたり、白倉さんも今のお嫁さんに出会ったりと、そういう意味ではROCKは人生を変えた場所というわけですか?

 そうですね。ROCKで働いていたから、飲食店でお客さん商売するのがいいなって思って、ROCKを辞めた後にお店を出そうと思った。ROCKから独立してお店を出したのは僕が第1号なんじゃないかな?とにかく、ROCKとの出会いがなければお店をやろうなんて思いもしなかった。

 

ROCKを辞めてしまう話

―1973年頃にロックを辞めてしまうわけですが、どういった経緯で辞めてしまったんでしょうか?

 ちょうど、1973年に第一次オイルショックになり不景気になったことと、自分のお店を出したいと思いもあり辞めたんです。

―辞めた後、すぐにお店を出したんですか?

 すぐにオープンさせた訳じゃなくて、準備期間と言うことで宿泊施設などで働きながら勉強をしていました。それで、1977年に自分のお店である喫茶店「ミルク」をオープンさせたんです。

―お店を出すにあたり、舩木社長に経営のこととか相談されたんですか?

 基本的に相談はしませんでしたね、多分。昔のことだから自信ないけど。でも、全面的にバックアップはしてくれましたね。ROCKのスタッフとかが、お客さんとして来てくれた。あと、ROCKのレジ横にマッチを置くところがあって、ミルクのマッチを配ってくれたんです。良さん(舩木上次の兄弟、舩木良)が、「ROCKの近くに『ミルク』って喫茶店ができたのでよろしくお願いします」ってね。足を向けて寝られないくらいですね。

―マッチは名刺代わりみたいなものなんですか?

 そう。お店の名前とかが書いてあってね。当時はタバコに厳しくない時代でね。喫茶店でタバコを吸うなんてことは普通だった。だから、喫茶店にはマッチがよく置かれていたんだよね。

喫茶店「ミルク」のマッチ

―ミルクを経営していく中でROCKを参考にしたことはあるんですか?

 当時のROCKでは、ホットサンドをよく出していて、それをまねしましたね。あと、厚切りトーストも。そういえば今のROCKではホットサンドはやっていないんだって?

―ROCKではやっていないようです。ROCKのスタッフの話では、昔からのROCKを知っているお客さんから「ホットサンドはやっていないの?」って聞かれることがたまにあると伺っています。「復活してほしい」とも言われているそうです。

 そうなんだ。それで、ミルクで新しく始めたことはクレープやパスタをやりましたね。そういえば、僕の働いていた頃はROCKではカレーを出していないので、その後にカレーを出すようになったね。

 

清里ブームの話

―そうなんですね。ミルクがオープンしてからしばらくして、ちょうど清里ブームの始まりましたが、その当時の清里はどんな様子だったんですか?

 1978年頃かな。ある漫画に清里が出てきて、それで中学生とか高校生が全国から押し寄せてきた。ミルクも紹介されてた。それがあって清里ブームが始まるんだよね。同じ年だったかな、清里にペンション第1号ができて、そこから倍々ゲームじゃないけど、どんどんペンションができた。清里っていう名前が知れ渡ったり、パステルカラーのペンションがどんどんできたりして、日本中の若い女性たちの憧れになっちゃった。寝る所とご飯をもらえれば、バイト代はいらないからバイトしたいって子がたくさん押し寄せたね。実際、ミルクにも高校生なのに年齢をごまかしてバイトに来た女の子もいましたね。当時はそんな時代ですよね。宣伝しなくてもお客さんが来ていて、僕はラッキーぐらいにしか思わなかったですね。

でも、上次さんは違った。「これちょっと違うんじゃないかな、こんなの本当の清里じゃないよね」って思っていたようです。お客さんがたくさんくるから、利益が出るといい車を買ったり海外旅行をしたりと「自分のために」って人が多かった。でも、上次さんは萌木の村を作ったりして利益は出ただろうけど、「その利益を地元に還元しよう」って考えていた。だから、地元の子どもたちをドイツへホームステイさせたり、ドイツの子どもたちを清里に呼んだりするようなことをしていた。あと、上次さんや僕とか、地元の若手10人ぐらいで集まって、清里観光振興会の青年部を立ち上げた。清里新聞を発行して、「本当の清里ってこう言う場所ですよ」っていうことも発信していたな。

 

白倉徳三から見た舩木上次

―白倉さんから見て、舩木社長はどんな人物だと思いましたか。

左:舩木社長 右:白倉さん

昔からカリスマ性、ユーモアのある人だったな。彼のことを「ブレーキのないダンプカー」って表現する人もいるけど、それくらい決めたことには一途に突き進んでいくような人ですね。本人も「俺にはバックギアもないんだ」って言ってました。でも、利益は地元に還元しようというところもあって、そのことに僕はすごく感心した。

―舩木社長は自分のことよりも地元を見ている人なんですね。

 地元のためにというかお客さんのためにという思いは今も変わらず持っていますよね。少し前だと2011年の東日本大震災の時、プロジェクトチームを作って、被災地で野外バレエを公演していましたよね。僕の聞いた話だと、社員からは猛烈に反対されたそうですが、彼は一度決めたらそれをやろうと前進する人だから、やりきりましたよね。僕なんか石橋をたたいても渡らないくらいような人間なのに。そういうところはすごいですよね。だからこそ、いろんな人の心に共鳴していくんでしょうね。2016年に2代目のROCKが火災に遭ったとき、すぐにクラウドファンディングが立ち上がり、翌日には地元のスーパーに募金箱ができた。それは、舩木上次という人間やROCKという場所に多くの人が共感して、ファンになって、だからこそ「助けなきゃ」と思うんでしょうね。それはすごいことだよね。

 

ROCKのこれから

―そんな多くの人に共感され、50年も続いたROCKですが、これから先もこの場所が残り続けるには何が必要だと思いますか?

 僕なんか、年齢を重ねて燃え尽きちゃっているからなにも言えないよ(笑)。

―ROCKのスタッフによると、昔のROCKを知る人から「ROCKは変わってしまったよね」とネガティブな声も聞こえてくるそうなんです。50年続いて、世代交代も考えなきゃいけないときに、時代も変化してお客さんのニーズが多様化して、でもROCKの歴史も大事にしたいって悩んでいるんです。

 悩むということは良いことだよ。萌木の村のみが繁盛するだけではなく、地元との相乗効果で、清里全体が元気になって欲しいと思う。今の清里は観光客がかなり減っている。昔は八ヶ岳南麓と言えば「清里」の一点集中でしたが、現在は大泉、小泉、長坂、小淵沢も様々な観光施設が出来て「点から面」に変わった。時代と共に観光動向も変わってきている。だから先を見通す事も大事ではないかと思う。先を見通して帰る必要性があれば変えるという姿勢は大事だと思う。清里という場所においてROCKと清泉寮は相撲で言えば東西の大横綱だと思う。どちらかの横綱がこけると清里にとって大きなダメージになるから、ぜひ長く続いていってほしい。今は新型コロナウイルスで大変厳しい状況だと思いますが何とか乗り越えてほしいな。

―ありがとうございました。

第3回目である今回、白倉徳三に取材をした。白倉も正式には店長ということではなかったが、初代ROCKは店長という形よりも舩木上次がマスターで、他の人が店長代理という形でやっていたのだろうと思われる。取材後、白倉に次の店長について伺ったが、心当たりがないよう。再び聞き込み調査のうえ、次の店長と思われる方に取材したい。次回掲載は、4月掲載予定。
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