「今の清里も、ROCKがなかったら廃れてたかもしれない。」
—ROCK50 年の歩み②畠見清——

ROCKの歴代店長へインタビューをする、「ROCK50年の歩み」。前回は、創業者で、萌木の村の村長・舩木上次を取材した。第2回目である今回は、舩木とともに初代「ロック」を立ち上げた、畠見清。舩木との出会いや初代の立ち上げの秘話、これまでとこれからのROCKや清里について伺った。

清里に来るまで

―舩木社長の後、2番目の店長だと伺いました。舩木社長と出会い、初代である喫茶店「ロック」を立ち上げるまでの経緯をお聞かせください。社長のお話(前回のお話)だと、出身は広島県ですか?

そう、大阪府に出てその後長野県の野辺山高原に来た。そこで牛を飼っているところに来て、牛の世話をしていた。後々廃業してしまうんだがね。廃業してしばらくは、野辺山高原とか清里あたりにいた。そうしたら、清泉寮があるKEEP協会から、「うちに来ないか」と誘いがあって、清泉寮に来た。3、4年いたのかな。そのころは、上次君(舩木社長)のお袋さんが昔やっていた「ドライブイン清里」ってお店によく遊びに行ったんよ。そこで上次君と知り合ったの。一緒に飲んでいるうちになんかやろうということになった。

―ちなみに社長と畠見さんの年はどれほど離れているんですか?あと畠見さんから見た舩木社長はどういう方だと思いますか?

俺は75歳で。彼は72歳だから、3つほど離れている(2020年8月23日現在)。上次君は、人柄がいい、面白い男。妥協はしないし、度胸もある。

―改めて伺いますが、先ほど、大阪に出たとのことですが、何をやられていたんですか?

俺が17か18歳の頃かな、サラリーマンをしていた。ただ、ラッシュアワーで毎日満員電車に乗って、仕事をするというのが自分に合わんって思った。当時はそれが嫌で、あるとき、野辺山高原で牛の世話をしている話を聞いて、単身でやって来た。

―舩木社長からはサーカス団に所属していて、その団員として野辺山高原に来たというお話ですが、違うのですか?

アメリカから東京に「大西部サーカス」というのが牛を連れてきてた。牛と言ってもバッファローな。サーカス公演が終わった後、その牛を買い取った人が動物を全部野辺山高原に連れて来て、飼ってたの。それをサラリーマンしている時に知って、単身で、何も連絡取らずに直接そこへ行って、使ってくださいという流れなの。何の連絡もしなかったけど、雇ってくれたね。

 

1960年代の時代背景

―1960年代にサーカスだったり、ウエスタンの文化だったりがあったんですね。

そう。その頃に、スパイ映画の「007 ロシアより愛を込めて」がやってて、東京にその映画の看板があったりした。西洋の文化が日本に入って来ていたな。

―すごい時代ですね。確か、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(以下CCR)がアルバムを出す前ですよね。68年にファーストアルバムが出たんでしたっけ。

俺はCCRが好きで、1972年にCCRが日本に来たときはライブに行った。(当時のチケットを取り出す)。

CCR日本特別講演のチケット

―えー、すごい!

武道館でのライブだったけど、見に行ったもん。1972年の2月。チケット料は2500円。CCRのレコードを買って良く聞いてたよ。ビートルズが来たのが1966年だろ。だから、CCRが来たのはその6年後ぐらいかな。

―ROCKのスタッフなどいろんな人に聞く中で、畠見さんがCCRを好きという話はよく挙がりました。その影響ですけど今のROCKでもCCRはよくかけるそうです。

初代のロックでも常にCCRをかけていた。当時のお店でかけていたのは俺のレコードを使ってた。CCRは声がいい。ボーカルのジョン・フォガティの声がね。それから曲もカントリー調でね。普通、ロックってかなりうるさい。けどCCRは違ったね。

 

初代ロック立ち上げ

―話が変わりますが、店名の「ロック」にはロック音楽をかけているという話を舩木社長から伺いましたがそうですか。

そう。ロック音楽の「ロック」でしょ。ロッククライミングの「ロック」とオンザロックの「ロック」と掛け合わせだな。岩の上にお店があったってのもあった。鉄骨で、階段を上がった2階がお店だった。

―店名の「ロック」は2人で語り合ってできたんですか?ロック音楽を好きな畠見さんが、「お店の名前はロックだろ」って言ったんですか?

明日、保健所へ書類を届けないかんって時に慌てて決めた。準備ばかりしていて、名前なんて考えてなかった。他に候補もなかったから逆にすんなり決まったよ。お店の名前、いい名前だと思わない?

喫茶店「ロック」で働いていたころの畠見

―いい名前ですよね。なかなか思いつかないですね。それで、お店を始めるときは、方針に対する意見のすれ違いで対立するとかそういうことはなかったんですか?

もめ事はなかったが、俺はよくお店を始める金があるなって思ったよ。知り合いの業者に頼んで多少安くできた部分もあっただろうけど、それでも大変だったと思う。

―社長の話では、田舎ってこともあるし、保守的ってこともあるし、若者が集まる所がないってことだから立ち上げたって話でした。

そうだな。それと、お客さんには野辺山高原からも農家の若い子が来ていた。清泉寮からも来ている人は多かった。今もそうだけど、当時の清泉寮も日本全国から働きに来る若い子がいて、周りで飲める店がなくてね。それが後々当たったんだと思う。若い子が来るから、当時コインゲームがあった。やる人が結構いたね。あとは、コイン入れて聞けるレコードもあったかな。まあ、当時からしたらここまでお店が大きくなるとは思わなかった。

 

初代ロック、当時の様子

―当時の店内の写真を持っていただきましたが、これを見ると棚一面にお酒がすごく並んでいますね。

そう。お酒はいっぱいあったな。ウイスキーが多くて、サントリーの角やオールド、スコッチウイスキーのホワイトホースなんかもあった。だから働いている途中、嫌になったんだよね。提供していると、あんまり俺が飲めないからさ。「やってられるか」って思ったよ(笑)それからCCRの写真を棚に飾ったな。

―そうなんですね。ところで、舩木社長と畠見さんの2人を中心にお店を立ち上げられましたが、ここはこうしたいとかこういう風にした方がいいというこだわりは何かありましたか?

俺はウエスタン調でやろうって思ってた。そういうウエスタンとかカントリー調が好きだったから。初代ロックのデザインはほとんど俺がやってた。(写真を指さしながら)当時の看板も、ベニヤ板を使って俺が作った。

―メニューについて伺いたいんですが、当時の写真を見るとメニューはホットサンドしかなかったんですか?ロックオリジナルメニュー・ホットサンドって書いてありますね。味はコンビーフ、シーザー…後は読めないですね。

バウルーのホットサンドメーカーを使った、ごく普通のホットサンドだったね。一般的なホットサンドだとトマトが使われることもあるだろうけど、初代ロックでは使っていない。野辺山高原のレタスは使ってたかな。

―畠見さんはポール先生との接点はありましたか?またそれはどんなつながりだったのですか?

清泉寮にいたから、つながりはあったね。数年間は一緒に働いたし、俺の結婚式にも出席してくれた。昔、住んでいた所の近くにポールさんの家があって、顔を合わせることもあった。お酒とたばこが好きだったね。特にお酒は、晩年、医者から飲んではだめといわれていたのに隠れて飲んでいたりとかしていたな。ただ、専属のメイドがいて、食事は全て家で食べる人だったから、喫茶店ロックにお酒を飲みに来ることはなかったと思うな。

―社長に伺ったときは立ち上げ当初は大変で、特に、冬場なんかは当時道路が舗装されていなかったってことですから、車とか全然通らなくて。お客さんもいなくて、一時は給料も払えなくてどうしようかと思ったと聞きましたが、苦労しましたか?

最初は大変だった。店が安定したのも俺が辞めた後からだろうな。清泉寮あたりから、俺が人を誘って飲みに連れて行ったもん。俺はロックを辞めた後、また清泉寮に戻ったんだよ。

左:畠見 右:舩木上次

―そうなんですね。社長の話では、かなり長くロックにいたという話ですが違うんですか?

俺は2年もいなかったと思うよ。妻と結婚したのが1973年で、清泉寮に戻った後だもん。経営的に厳しくて、これじゃ結婚もできないなって話も挙がったのよ。結婚するならまた、清泉寮に戻った方がいいって話になったね。それで清泉寮に戻った。確か1972年だったかな。

―前回、社長からは、立ち上げから3年は大変だったと聞いていますが、その時にはもういなかったんですね。

俺の印象が強かったのかな。辞めた後も、遊びに来ていたし、髪が長かったからな。辞めるときはまだ大変な時期だったから、上次君から引き止められたかもしれないけど、結婚も控えていたし、こっちの事情で辞めるというところだから強くは引き止められなかったと思う。

―辞められた後はずっと清泉寮にいらっしゃったんですか?

そう。フロントをやったり、清泉寮の売店や施設管理なんかもしたな。

―そうすると、ロックの店長を特にしたわけではなく、2番手として、ロックに関わっていたと言うことなんですね。そうすると舩木社長の後店長は誰がやったか分かりますか?

辞めた後の詳しいことはよう知らんけども、「白倉さん」だったかな。

―畠見さんが辞められた後に、清里ブームやバブルが来て、ロックも安定してきたのですが、取材陣は1990年代生まれで、みなさんから聞く話はイメージできるんですけど、渦中にいた人たちが清里の変貌をどのように見えていましたか?

上次君は慎重な性格だから、ブームに完全に乗っかることはなかったな。一方で、当時、駅前のお店は大変な人出だった。あと、ペンションも多くできた。有名人がペンションを作るとみんなそれを見に来ていた。そういうこともあって、清里の土地が1坪何百万円の時があった。だけど、ブームは必ず去る。ペンションもだんだん廃れた。でも、リピーターがいるところは長く残っている。清泉寮とかあるKEEP協会はちゃんとしたことやっていたから、リピーターもいた。だから、ブームが終わっても、KEEP協会が廃れるとは思わなかった。俺の仕事はリピーターを作ることだった。これ1番大事。今のROCKだってそうだと思うよ。リピーター多いだろ?数年前火災でお店が燃えても多くの人がよくしてくれたのは、リピーターのおかげだろ。やっぱり、良いお店や旅館には行きたいもん。それは、上次君の持論だからな。

 

ROCKと清里の未来図

―良いお店に関連して、来年でROCKが創業から50年を迎えるんですが、今後も続いていくために、ROCKがどういう場所であってほしいと思いますか。

俺はこのままでいいと思う。今の雰囲気はいいと思うよ。スタッフがちゃんとしている。教育がいい。結構、上次君もうるさく言ってるみたいだね。今のお店のこういう雰囲気のままでいいと思うよ。今の清里も、ROCKがなかったら、廃れてたかもしれんな。上次君の考えは一流を目指せっていうポールさんの教えからきている。上次君も絶対に妥協せえへんもん。みんなに言われても、屁とも思ってないもんね。結論として言えば、このROCKを作ったことはたいしたことだと思う。50年たっても、いろんなお客さんが来ているからね。

 

―少し広げると、清里はポール先生とかいろんな歴史が続いて来た。清泉寮があって、ロックがあって、バブルもあって、現在清里は八ヶ岳全体でも人気のエリアになってきたと思います。この清里ってどういう場所になってきてほしいと思いますか?

清里もこのままでいい。何か名物ないかって俺もずっと考えてきたよ。けど何もなかった。逆に何もないからいいのかもしれない。山あり谷あり。牧草があってそのままでいいんだよな。変に都会と同じでなくてもいいし、この自然環境を守る必要は絶対にあると思うよ。

編集後記
第2回目である今回、畠見清に取材をした。お話を伺うと、店長ではなかったという衝撃の事実が浮かび上がった。しかしながら、舩木社長をはじめ、長年ROCKなどで働いているスタッフに聞くと必ずと言っていいほど名前が挙がっていた。それほどまでに、畠見清のもたらした影響は大きかったのだろうと思える。彼と舩木社長の出会いこそが、今なお続くROCKの歴史の礎の1つなのかもしれない。
前の投稿
《八ヶ岳ベーカーズ対談企画》「こだわり…
戻る
次の投稿
「ROCKとの出会いがなければ、お店をやろ…

ROCK MAGAZINE ROCK MAGAZINE