「基本的に1本の筋が通っていて、クリエイティブに新しいものと融合していけば、生き残れるんじゃないの」——ROCK50 年の歩み①舩木上次——

2021年、ROCKは創業から50年を迎える。これまでROCKでは、数多くの人が関わり、数々の伝説が生み出されてきた。その伝説を紐解くため、これから約1年にわたり、ROCKの歴代店長へインタビューをする。記念すべき第1回目は、ROCKの創業者にして、萌木の村の村長・舩木上次。彼に、ROCK立ち上げに影響したことや苦労話、ROCKが目指す未来などを伺った。

【幼少期の原体験】

―子どものころはどのように過ごしましたか?

俺はキープ協会や清泉寮などで、ポール・ラッシュ先生を見て育ったんだよ。子どもの頃の清里は、田舎だけども洋風な田舎だった。物心ついたときから、アメリカや日本全国から清里へお客さんが来ていて、ポール先生の所にもいろんな人が出入りしていたな。例えば、ピーター・ドラッカーさんとか。いろんな人が出入りするから、俺は芝刈りをしたり、掃除をしたりして迎え入れる準備のお手伝いをした。そんなところから、お客さんと関わる楽しさなんてものを感じていたね。

少年時代の舩木上次

 

―子どものころ、ポール・ラッシュ先生から教わったことで特に印象的な事は何かありますか?

先生は「アメリカで成功した人は、最後に自分のホテルと牧場を持つ。それが人生で最高の贅沢だ。」なんてことをよく言っていた。そういうことがなんとなく、子どもの頃の頭の中にこびりついていて、いつかはお客さんと関わる仕事をやっていこうと漠然と思ったね。あとは、先生はよくパーティーをやっていた。誕生日や歓送迎会、キリスト教だからクリスマスとか、そういうのが思い出に残っていた。そういうパーティーも、全部サービスだよね。そういうものに影響されていたのかもな。

三兄弟揃っての貴重な一枚。ポールラッシュ邸にて。

【興味は飲食へ】

―サービス、つまりお客さんと関わる仕事は、飲食のほかにもいろいろあると思いますが、いつ頃から、またなぜ飲食のお店にしようと思ったのですか?

飲食の仕事をしようとぼんやりと思い描いたのは、10代後半から。ちょうど、日本は高度経済成長の頃で、レストランだと日本人がアメリカで鉄板焼きの店を立ち上げて成功したのを見て、子どもながらに「おもしれーな」って思った。大学は東京にある大学へ進学したけど、その頃は東京にあったレストランに興味を持ってたな。ちょうど、世田谷区の等々力にピザ屋ができたり、吉祥寺ではファミリーレストランができたりした。洋風でおしゃれなレストランがたくさんオープンして、こういう洋風なお店が清里にできたらいいなって思ったよ。さっきも言ったけど、清里は田舎なんだけど洋風な田舎だから。そんなことを夢見たね。

【ROCKの始まり】

―その後、大学を中退して清里に戻られたそうですが、そのとき、都会である東京と洋風な田舎である清里では、何か差があると感じましたか?

若者のエネルギーを発散できる場所が全くなかったね。地元の人は保守的で、上下関係がはっきりしたような雰囲気があった。だから、若者が集って夢を語りあえる場所を清里に欲しいと思ったんだよ。子どもの頃からお客さん相手の仕事がしたいと思ったし、10代後半からレストランに興味があったから、喫茶店「ロック」をやろうと思った。

―開業に向け、何か勉強されたりしましたか?

大学を中退して、2年半ぐらいはアルバイトをしてたね。俺には飲食関連の技術がなかったから。清泉寮や国民宿舎の八ヶ岳ロッジで皿洗いや厨房のお手伝いをしていた。当時のコックは厳しい人が多かったけども、そこでいろいろ勉強させてもらった。皿洗いは長い時間やっていた影響で手がひび割れっぱなしだったな。働く時間も長くて、朝から晩まで。特に夏なんかは休みなく働いたよ。それでいて、当時の給料って安くて、ガソリン代くらいにしかならなかったの。今の最低賃金よりも安かったんじゃないかな。開業資金には充てられなかったね。だから、お店をオープンするときは全額借金だったよ。

23才で立ち上げた喫茶店「ロック」

―そうした経緯があり、喫茶店「ロック」がオープンするわけですが、オープン当初はどのようなメニューがあったのですか?

元々は、ピザ屋をやろうと思ってたの。当時、日本でピザ屋がはやりだした頃で、清里には1軒もなかったから。それで、俺がいろんな人に「ピザがいい、ピザがいい」って言っていたら、清泉寮にいた俺の親父の後輩で、清里駅前でレストランをやっていた人が、「俺にピザをやらせろ」って言うわけ。清里にピザ屋は2軒もいらないってことで、じゃあ、俺はピザ屋やめるってなった。ピザはやらなかったけど、若者に人気がありそうなワッフル、ホットケーキ、ホットサンドを中心に、コーヒーを出す喫茶店にした。喫茶店と言っても、夜はお酒も出していたからスナック喫茶みたいなもんだ。俺はお酒が飲めないんだけど、ポール先生がバーボンをよく飲んでいたから、アーリータイムズやテンハイなんかを扱った。バーボンも飲めるスナック喫茶がオープンしたわけ。

―少し違えば、ROCKはピザのお店になっていたのかもしれないのですね。今のROCKはカレーが有名ですが、今、伺ったメニューが現代には残っていませんが?

当初はさっき言ったメニューだったけど、それだと東京の若い人なんかはいいけど地元の人には物足りないって言われた。食事だったら米を食べたいじゃん?それでカレーを作り始めたんだよ。記憶が曖昧だけど、お店を始めてから2年たってからかなぁ。地元の人たちはワッフルとかホットケーキはあんまり食わないわけよ。そんなものよりカレーがいいわけ。それで、カレーがだんだん人気になって、ROCKはカレーが有名な店になったの。

初代ROCKの暖炉とカレー

―そのほか喫茶店「ロック」の特徴は何かありますか?

ロック音楽がガンガン鳴っていたね。喫茶店「ロック」は畠見清さんと2人で立ち上げたんだけど、俺もだけど、畠見さんは特にロック音楽が好きで、当時はビートルズやボブ・ディラン、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル、レッド・ツェッペリンなんかがはやってさ。反戦歌というかね。そういうのをお店でガンガンかけてさ。そこに若者が集まってわいわいガヤガヤしていたね。

―ロック音楽がかかるお店だから、店名は「ロック」にしたのでしょうか?

それもあるけど、初代のお店があった場所が、今のROCKよりも国道141号沿いにあった。ちょうど今の駐車場あたりかな。そこに鉄筋の土台で、掘っ立て小屋みたいなお店ったんだけど、お店を建てた場所が大きな岩の上だったの。その大きな岩は、破砕して今はもうないけどね。岩は英語で「ROCK」でしょ。だから、「ロック音楽」と「岩」を掛け合わせて、「ロック」という名前のお店になった。

国道141号線沿いに建っていたROCK

―オープン当初、お店を利用される人はどのような人が多かったですか?

東京から観光に来る人もいたけど、地元の人の利用が多かったね。ただ、一部の人からはチンピラが集まる店って言われたりもしたな。ロック音楽が鳴って、お酒も出していたし、若者がたくさん集まったし。そう言われたのは一時的だったけど。地元の方によく利用してもらって、忙しいときは、ウイスキーのボトルが1日14本か15本出るくらいに忙しかった。みんなわいわいして。これは自慢だけど、創業からずっと初代「ロック」の中でトラブル一度もなし。暴力問題なし、女性の問題なし。店の中からみんな追い出しちゃったから。何回も暴力団関係者のような人と闘ったよ。「表へ出ろ」なんて言うのは、年中あったよ。妥協せず、毅然と対応したから、「ロック」は女の子一人で来ても安心のお店だったと思うよ。

―ところで、先ほどからお話に出てくる、「畠見さん」とは?

俺よりも3歳ぐらい年上だったかな?俺が中学生くらい、彼が18か19歳ぐらいのときに清里にやってきた。彼は広島県出身で、サーカス団が終わりになった時に野辺山周辺に払い下げられた馬や牛の面倒を見る仕事をしていた。そのときに清里にやってきた。清泉寮に勤め始めて、そこで俺と友達になるわけ。彼は言うなればカウボーイみたいな人で、馬が好きだった。それから自然が好きで、お酒が好きで、音楽好きで、楽しい人だった。それで、俺が1番意気投合した人だから、「ロック」を始めるときに誘って一緒にやったの。誘ったのは俺がまだアルバイトで皿洗いしているときだったかな。

―衝突などはありませんでしたか?

忙しく働いていたから、そんなにいろいろ言うことがなかったね。お店も午前7時か8時くらいから午前1時か2時ぐらいまでやっていたから。場合によっては午前5時までやっていたときもあった。ご飯も立ったまま食べてるなんてこともよくあった。でもパワーはすごいあって、朝早くから夜遅くまで働いていたのに、営業終了後に遊び歩いたりなんかもしたな。

―1日中忙しかったという事ですが、当時はどのくらいの人数でお店を回していましたか?

俺、畠見さん、アルバイトを入れて5人くらいだったかな。少ないときは俺1人なんてときもあった。忙しいと言っても、お客さんが多いのは夏場で、冬なんかはお客さんが少なかったね。国道141号は今は舗装されているけど、昔は未舗装で。雪なんか降ると車なんか走れなかったからね。それでお客さんはいなかったけど、まき割りとかやる事はたくさんあるから、常に忙しかったな。機械があるわけじゃないから、全部手作業だった。立ち上げはとにかく経営として厳しくて、給料が払えないときがあったぐらいだったよ。

【ロックの盛り上がり】

―苦労が絶え間なかったと思いますが、余裕が出てきたときはいつ頃でしたか?

ロックのオープンから3年くらいたって、清里が注目され始めてからだろうな。高度経済成長期で、当時の日本国有鉄道が始めた「ディスカバー・ジャパン」って言って、遠くへ旅をしなさい、余暇を楽しみなさいってキャンペーンがあって、遠出するように時代が変わったの。そのとき、女性誌の「non・no」や「an・an」とかに清里の特集が組まれた。清泉寮やロック、ペンションとかよく紹介されたな。清里特集の掲載された雑誌が販売されれば、電話は鳴りっぱなし。半年間お客さんがいっぱいだったと思う。清里がよく特集組まれるから、自分たちの実力以上に露出度が高かったな。それで清里ブームが来るわけ。清里に来るお客さんは多いときには「ロック」から清里駅前まで1時間かかるほど人にあふれていた。特に若い人にはデートスポットとして「ロック」は人気だった。この前も、萌木の村を歩いていたら、男性に話しかけられて、話を聞いたら「昔、『ロック』でプロポーズして、今では孫がいます」なんてこともあったくらいだからさ。

―女性誌などで取り上げられ、清里への注目度が高まったから、「ロック」に人が来るようになったということですか?

「ロック」はどちらかというと武骨なお店だったから、決して女性受けするお店づくりではなかったと思う。「ロック」は清里ブームが来る前にオープンしていて、どちらかというと清里の原点みたいな扱いだったかな。それに基本的にお店は、そこに働く人間、お店の雰囲気、味の良さ、それから地域の魅力のトータルが大事だと思う。「ロック」はその中でも、働く人の魅力が強かったと思う。働いている人も筋の通った開拓青年みたいなのが多かったし。魅力があった店だから人が来たんだと思う。一方で、ブームに乗って、お土産物屋をやるとかはなかったな。周りにはお土産物屋をやった方がいいって言われたけど、ちんたらちんたら商売してたね。

―それでも若者に人気になった訳ですから、かなり売り上げもありましたか?

当時お店は40席しかないけど、多いときで1日140万円も売り上げたかな。

弟、淳(右)と良(左)もお店を手伝いました。真ん中は3代目店長、石原さん

【ロックからの派生、その理由】

―それだけ売り上げがあれば、給料のお支払いはもちろんの事、経営としてはかなり余裕を持てそうですが、売り上げはどういったことに使いましたか?

主に、土地の購入でしょうね。10代の頃、レストランに興味はあったけど、そのほかにもホテルにも興味があった。ポール先生が人生最高の贅沢としてホテルを持つ事を言ってたからね。それで、1978年にホテル「ハット・ウォールデン」を立ち上げるの。その立ち上げも、旅館業の認可を取るのに苦労したね。

―喫茶店「ロック」の立ち上げ後、土地を購入し、ホテルをはじめ、さまざまな事業に取り組んでいますが、どうしてそうしようと思ったのですか?

清里ブームが来て、それからバブルが来て、清里の土地は価格が跳ね上がったの。坪500万円だったかな?とにかく高騰して、それで外部の人間が乱開発しようとするわけ。それを守るために土地を買ったってのがあるかな。ポール先生から始まって、開拓されてきた清里の自然環境を守りたかった。乱開発されて失いたくなかったの。

土地は開拓時代のものだから、いろんな所が虫食い状態だった。例えばメリーゴーランドをやろうとしたら、「あれ、ここ誰か別の人の土地だ」って。人が住んでいない土地もあったから全体を把握できていなかった。全部まとめて土地を購入してやれば良かったけど、お金がないから継ぎ足し継ぎ足しで土地を購入して、萌木の村を広げていった。

1997年醸造所を併設した2代目ROCK建設中

―そうした変遷もあり、「ロック」ひいては萌木の村が拡大していくわけですが、そうすると「ロック」の店長はいつ頃替わったのでしょうか?

萌木の村・村長になって、ホテルができたあとも、割と「ロック」をうろうろしていたよ。俺が経営者で1番だとしたら、2番は畠見さんという風に。俺はホテルを経営しながら、「ロック」で皿洗いをしていたんだよ。お客さんに会いに行くのが楽しくて。皿洗いの速さはあったけど雑だって、みんなに怒られたけどね。

オルゴール博物館ができたあたりから、村長としての仕事が増え始めて全体を見て回るようになった。それで、そばにいる事もあったけど、だんだんみんなに任せるようになったと思う。

ただ、今もなんだけど、村長として経営の仕事をしなきゃいけないのに、現場に入って作業したくなるんだよね。例えば庭の石積みをするってなったら、重機を動かして率先してやるわけ。それなりに重機の扱いがうまいから当てにされちゃうんだよね。周囲の人から見れば、経営陣としての仕事をしろって不満に思うかもな。だから、ここまでの規模にしかならなかったし、ここまでの規模の萌木の村になったっていう両方の面があると思うよ。

【ROCKの未来】

―ROCKは2021年で50年になりますが、ROCKが60年、70年、もっと先まで続いていくためにどうしたらよいでしょうか?

基本的に1本の筋が通っていて、クリエイティブに新しいものと融合していけば、生き残れるんじゃないの。花に例えると、種があって、根があってそれから花が咲く。すべての始まりは種なんだよな。清里は、ポール・ラッシュ先生という種からスタートしていると思う。それで、俺自身は自分を根だと思っている。根である俺が育って、根からどういう風に花を咲かせて実を結ぶか。それが形良く育っていけばいいけど、形悪く育つときもあるから、悪いときは刈り込みをしなきゃいけないわけよ。だけども刈り込みのときは、全く新しいものからスタートするのではないと思う。全て過去からの連続性で育っていかなきゃいけないわけ。全て刈り込みをしてしまうと、これまで築いた財産を全て失ってしまう。だから、基本は崩さず、新しい芽を吹かせて形を整えていく事ができればROCKは、清里の歴史はある程度続いていくんじゃないかな。

今年で創業49年。生まれ変わってきました。

―具体的には何が必要ですか?

大事なのは、「理論武装」と「五感で感じること」。

ポール先生は天才だった。天才というのは理論武装してないんだよ。瞬間的に判断して何かと何かを掛け合わせるわけ。例えば、人と人を出会わせてつなげるとかな。ただ、天才にも欠点がある。それは、理論武装していないってこと。理論がしっかりしていないと周りの人に説明できないから、みんなが分かんないの。だから、理論武装は大事なんだよな。

それと、五感で感じることもなかなか分かんないの。AIの技術が進化して、人からAIに代わることがこれから先多くなると思う。AIのやることは、安くて、速くて、安全なんだよね。AIにできないようなことをやっていかないと生き残れない。具体的に、デザインがいいとか悪いとか、それから味とか。そういうのはAIには判断できないことだから。ウイスキーを分析しろってなると、アルコール度数が何%だとか、色がどのくらいだとかそういうことは判断できるわけ。ただ、そのウイスキーがうまいってのは分析できないと思うの。楽器の分析をしろってなると、音が狂っていないってなる。ところが、良い音って分かんないの。

だから、人間にこれから求められるのは五感で感じる能力だと思う。それは人間が持つ武器だな。自然の中で関わりながら、人が五感を生かせれば、ROCKを含む萌木の村全体が永遠に残れるかもしれない。それが分からなければ、AIに食われる。

話が変わるけど、「働く」ってどういうことだと思う?

―……「働く」ですか?そうですね、私は、生活のためと自己満足かなと思います。自分の人生の自己満足のために働くんじゃないかなと。

俺は自分の時間をどう使って、どう周りに影響を及ぼすかだと思うんだ。今の時代、働くことは経済的な見返りが第一だ。それで、経済的な見返りで満足しないから、見返りのほかにちょっと刺激を加えるんだよ。みんな、やりがいよりも小さな刺激と経済的なものを求めているんだよな。それが好きならそれをやれって思うよ。刺激と経済的見返りを求めること自体を俺は否定しない。そしたらさ、それを求めるなら清里にいるなって思うわけ。東京へ行けよって思うの。土俵が違うんだよ。清里で手に入るものと東京で手に入るものは違うわけ。

例えば、ポール・ラッシュの元で働いた人は誰も見返りを求めねえのよ。ポール先生の重視していた事は「祈りと奉仕」。食えればいいって教えを受けてみんな育ってるわけ。経済的な見返りがなくとも、清里の開拓にたくさんのエネルギーを出せたのは何かに見せられているからだと思うの。それは、他者への奉仕の喜びとかさ、自分の実力が上がるとかさ、仲間ができるとかさそういうもんだと思う。そういった働くやりがいをROCKや大きく言えば萌木の村全体で示す事ができれば、働くことに対してやりがいを持てる社会ができてくるんじゃないかなと思うよ。

努力をするなら、何を手に入れたいのか、何を大事にするかを考えて、自分が1番納得することが大事なんじゃないかな。

―それはつまり、ROCKやひいては萌木の村で働くスタッフは清里で働いているから、やりがいや働く喜びを感じながら働いて欲しいということでしょうか?

そうそう。それでこの前、甲府市のお坊さんと話したんだけど、最後はみんな死ぬの。早かれ遅かれ。死の間際に一瞬走馬灯のように、人生が生まれたときから、生涯を頭の中でばーっと高速回転で繰り返すらしいの。そのとき「自分は幸せだった」と思える人が幸せなんでしょ?それって何なんだろうね。多くの人は死の瞬間まで錯覚するんだよな。自分の欲に負け、何を手に入れたいのか、何を大事にするかを見失う。俺も、そういう錯覚をたくさんしているもんな。俺は萌木の村の村長として、ここで働いているみんなより錯覚しないように、しないといけないんだろうな。

―錯覚をしない、つまり何を手に入れたいのか、何を大事にするか見失わないというところから、ご自身が目指す理想のROCK、萌木の村といった具体的なビジョンはありますか?

ROCKをはじめ萌木の村は、感性の高い人に求められているんだよな。感性が高いって、お金持ちの人だからとか、高度な教育を受けたからではないの。お金持ちでなくても、高学歴でなくても、感性が高い人がいるの。ROCKや萌木の村を、そういう感性が高い人たちが集まる場所にしたい。

そういう話をすると、一部の人から「社長は一流の人が好きなんですか」って言われるの。そうじゃねえの。自然だと、あからさまに整えたものではなく、あくまで自然体な自然。それがきれいに花が咲いていたら感動したりする。例えば、このバラは高いって言ったらその金額に驚いて感動するんじゃなくて、安くても、どこにでも咲いているような花でもきれいに咲いていることに感動する感受性を持つ人が集まる、それに耐えられる場所を作りたいね。

―そのような場所にするために、どういうところを変えていきたいですか?

多くの人は、比較できるものは全て一般社会と見比べるわけ。分かりやすいところでは金額で比べるのね。

ROCKは「らしさ」で勝負しているのに、うちのスタッフにもまだ区別できないところがあると思う。例えば、ROCKのビールは値段が高いよな。高いものでも質が高い。国際的な品評会で高い評価を受けた。飲んだら分かる人に支持されている。うちのスタッフ中には、質とかの「らしさ」の差ではなく、金額で比較している人もいる。スタッフ全員が、価格ではなく、ビールに自信を持てばうちは強い状態になるでしょうね。その値段を取るだけのほんの少しの努力をしている。2倍も3倍もしてるとはいないが、ほんの少しの努力を怠っていないから価値がつくんだよね。価値がなければお金は払わない。ステータスとか見栄で高い金額を払う人もいるでしょう。一方で、ものの価値を認めて払う人もいるでしょう。悪徳な利益を上げるのではなく、庭もビールも手間暇をかける。それが価値につながり、価値を認める人がいてそれを生み出し続ける人がいる環境だと萌木の村は最高だな。それを次の世代が利用して生き続ける萌木の村であってほしいと思ってるよ。

―最後に、ROCKや萌木の村のスタッフに向けて、改めて何か伝えたいことはありますか?

日々の生活はそんなに負担はかけられないだろ。朝を起きて、夜寝るまでそんなに大差ないよ。その中で、ほんのちょっとの小さなことに気づけるかどうかだな。日々、高い目標を持つ事はすごいことだけど、いつも高い緊張感じゃなくて、ちょっと、他の人より、ほんのちょっと、気づくことが大事。気づくってことは、成長だから。少なくとも、ここで働いているうちは、成長ってギャラを取ってもらいたいわな。成長というギャラがあれば、結果的に経済的な見返りにつながる。成長がなければ、ただ、年老いていくだけじゃねえか。あと、夢がないとね。夢があると戦えるけど、夢がないと戦えないわな。そういう意味では俺が1番夢を持たないといけないだろうな。

―ありがとうございました。
【編集後記】

ROCKの歴代店長へインタビューの記念すべき第1回目は、ROCKの創業者である舩木上次に話を伺った。子どものころのポール・ラッシュの教えがあり、それが彼自身の土台となっている。根っからの挑戦者であり、何でも面白がれる好奇心の強さ、そしてさまざまな分野に対する理解、歴史に対する尊重。そうした精神が詰まったのがROCKであり、萌木の村であると思った。次回は、彼と共に喫茶店「ロック」を立ち上げた畠見清に話を伺う。(次回掲載日9月中!)

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