総支配人・三上が聞く!Vol.06
「ポール・ラッシュの精神、その聖伝を忘れて清里の繁栄はないんです」
井尻俊之さん

ROCKの若き総支配人・三上浩太が「今会いたい人」「話をしたい人」に声をかけて、飲食店という枠を超えた話をするシリーズ「三上が聞く」。今回はROCK、萌木の村、そして清里のルーツであるポール・ラッシュ博士について改めて学ぶべく、元山梨日日新聞編集記者の井尻俊之さんにお話を聞きました。

井尻さんは新聞記者時代にポール・ラッシュ博士の伝記連載を執筆。その後、清里の秋の収穫祭である「ポール・ラッシュ祭〜八ヶ岳カンティフェア〜」の立ち上げや山梨県アメリカンフットボール協会の創立に尽力し、現在も理事を務めるほか、ポール博士の秘められた業績について研究を行っています。

「清里開拓の父」と呼ばれるポール・ラッシュ博士が何に挑戦し、どんなスピリットを残したのか。今回は改めてその精神について聞きました。

戦前から続く天皇家とポール・ラッシュ博士の関係

三上 ROCK、萌木の村のルーツにポール・ラッシュ先生がいらっしゃるというのは、僕らスタッフも知っていて、意識しているところです。でも、その多くは社長の舩木上次から聞く話で、知らないことも多いと思います。今回は改めてポール・ラッシュ先生と萌木の村についてお話を聞かせてもらえれば。

井尻俊之さん。

井尻 そもそもの話から始めるとひと晩かかっちゃうなぁ(笑)。萌木の村がなぜ「村」なのか? そのルーツには清里農村センターがあるんです。1949年にスタートした清泉寮ジャージー牧場の前身です。

三上 社長(舩木上次)のお父さんもそこで働いていたんですよね。

井尻 そうです。そこの農場長をつとめたのが上次さんのお父上の常治様。つまり舩木社長さんは本物の牛飼いの子、カウボーイなんですね。そして、そこで小さいころからポール・ラッシュさんにかわいがられた、ポール・ラッシュ・ボーイズのひとりでもある。さて、じゃあポールさんはなぜ清里農村センターを設立したのか。それは昭和天皇とのお約束なんです。

三上 天皇陛下ですか。

井尻 そうです。日本は戦争に負けた。それも酷い負け方をしたわけです。そしてGHQがやってくる。ポールさんも戦後GHQで働くことになります。ポールさんは戦前に来日し、日本にアメリカンフットボール競技を紹介したり、聖路加国際病院の建設に尽力したりといろいろな活動をされていた。そして、その当時から皇室との関係が始まっていたんです。初めてのアメリカンフットボールの試合でも秩父宮さまをお招きしていますからね。聖路加国際病院も皇室と関わりが深い病院ですしね。そうした皇室との関わりを持っていた彼は、戦後GHQで極東軍事裁判、いわゆる東京裁判の資料集めに関わることになります。東京裁判における最大の焦点はなんだかわかりますか?

三上浩太。

三上 天皇の戦争責任ですね。

井尻 そう。GHQは戦後の日本復興において天皇の存在は絶対に必要だと考えていた。だから、天皇を訴追することは避けなければならなかった。とはいっても、マッカーサー元帥が訴追したくないからという理由で訴追せずとすることはできない。裁判ですから。でも、じゃあ天皇に戦争責任がないという証拠はどこにあるのか? 探さなければならない。その証拠探しの特命をマッカーサーから指示されたのがポール・ラッシュさんだったんです。彼はGⅡに設置された「スペシャルアクティビティ・ハウス」の責任者に任命され、東京裁判のための捜査資料を編集する仕事に専従となります。そうして、ポールさんが見つけ出したのが、最後の元老・西園寺公望の秘書だった原田熊雄の日記、通称「原田メモランダム(原田日記)」で、天皇側近が記録した「木戸日記」とともに裁判の最も重要な証拠資料となりました。彼は個人として皇室と接触して、この日記を探し出したわけです。さらに、ポールさんは戦犯のパージ、公職追放にも関わっています。これらの資料もポールさんのところを通っていくわけです。GHQにいた1945年から1949年の間、彼は望むと望まざるとに関わらず、すごい権力を持つことになっていたんです。吉田茂、芦田均、鳩山一郎といった当時の日本の最高権力者が足繁く彼のもとに足を運んでいた。

日本の新しい農業をつくることが天皇陛下との約束

三上 そのポール先生がなぜ清里で酪農をはじめたんですか?

井尻 日本は敗戦で国が滅亡してしまった。彼が考えていたのは、日本の新しい国づくり、戦争で失ってしまった希望や自由と平和を基軸とする新しい国づくりでした。そのお手本となる場所として選んだのが当時日本で一番貧しかった、この清里だったんです。敗戦により、日本は大変な状況でした。東京をはじめ、全国各地が焼け野原となり、人々はものすごい飢餓で苦しんでいました。満州から引き上げてきた人もたくさんいたけれど、彼らが住む場所、働く場所もない。もともと日本でやっていけないから植民地として満州に渡っていたわけです。帰ってきても食べていけない。そういう人たちが生きていけるようにするにはどうすればいいのか?

清泉寮にあるポール・ラッシュ博士の銅像。

三上 でも、清里だってもともと山間高冷地で、農業に向かない土地ですよね。

井尻 そうです。というより、日本の国土はその大半が山間高冷地で、満足に農業ができなかった。日本の伝統的な食生活というのは、お米と味噌汁、漬物、それにめざしなどの魚だけ。だから戦前の日本の農業はお米と雑穀をつくるのが基本。でも、お米をつくれるような平坦地は国土のわずか2割程度。だから、農家は貧しく、いつも飢饉の不安があった。清里もお米はできない。戦前にやってきた開拓民、上次さんのお父さんもそのひとりですが、大変苦労していた。そこでポール・ラッシュさんが考えたのは、新しい農業でした。「限界農地」、農業が満足にできない土地と見なされていた山間高冷地でできる農業です。それが酪農でした。ポールさんの故郷であるアメリカのケンタッキー州の愛称は「ブルーグラス」といい、牧草が生い茂る農業州なんです。馬、牛、酪農、豚やトウモロコシなどの農業生産が盛んな土地でポールさんは育った。そして、山岳地帯なんかは清里の景色とよく似ている。

三上 それで清里農村センターを立ち上げたということですね。

井尻 はい。それは日本の不毛の荒野に新しい農業をつくることであり、新しい日本の食生活をつくることでもあった。それまでのお米と漬物、味噌汁という食生活から、肉を食べ、牛乳を飲み、高原で育てられたキャベツやレタスといった野菜のサラダを食べる。そういう食生活にすれば、日本の飢餓を救い、人々は食べていけるようになる。当時、日本で最も貧しかった清里が成功すれば日本全国に普及できる。そのモデルとして清里農村センターを計画したというわけです。

三上 その計画がどうして天皇陛下のもとへ持ち込まれたのですか。

井尻 昭和天皇は、戦後の新しい国づくりについて真剣に悩んでおられました。そのことを知って、ポールさんは清里の計画を天皇に内奏するんです。ポールさんは、新しい日本の希望を清里でつくる、そのために自分の残る生涯を捧げる、と。その計画を昭和天皇は受け入れ、皇室として応援することを約束されたんです。こうして、天皇とのお約束として、清里農村センターはスタートし、清里農村センターの様々な行事に高松宮、秩父宮、三笠宮が参加されました。驚くべきことは、皇室とポールさんのお約束は今も受け継がれているということです。今上天皇、皇后陛下が終戦60年のプライベートなメモリアル行事として、2005年8月に清泉寮、ポール・ラッシュ記念センターを行幸啓され、ポールさんを追悼された。注目すべきは、天皇陛下自ら清泉寮で昼食会を主催され、 キープ協会幹部や北杜市長を招いて、労をねぎらわれたこと。そのことは、皇室が清里への想いを内外に明らかにしたものです。

三上 その清里農村センターの計画に社長(舩木上次)のお父さんも参加するわけですね。

井尻 そうです。これが舩木家のルーツであり、今の舩木社長のプライドなのです。この計画は本当に日本の農業を変えたのです。山間高冷地でも育つ、小柄だけれど丈夫なジャージー牛を戦後日本で初めて輸入し、清里で育てはじめる。清里の成功を受けて、政府は1954年に酪農振興法を制定します。北海道の日高、秋田の鳥海山、岡山の蒜山、熊本の阿蘇と、日本各地にキープ協会と清里農村センターのモデルが持ち込まれ、酪農や高原野菜の栽培が広がっていった。舩木家はその日本の農業改革に深く関わっていたわけです。このチャレンジ・スピリットこそ萌木の村のルーツでもあるのです。清里のチャレンジが本物であったことは、世界一の大富豪であるロックフェラー家当主の3世と4世がポールさんを支援するため何度も清里を訪問していることでも分かります。幼かった舩木社長はハネムーンで清泉寮にやってきたロックフェラー氏(ジョン・デイヴィソン “ジェイ” ロックフェラー4世)と遊んでもらった写真を大切にしています。まぁ、清里って歴史のスケールが違います。そんなこんなで、舩木さんのトレードマークがスーパーマンになったようですが、ほんとはカウボーイ(笑)。

「Do Your Best」の言葉に込められた神のミッション

井尻 1954年に始まった八ヶ岳カンティフェアもこの農業改革の一環なんですね。清里で実践された新しい日本の農業と新しい食文化を全国に広めるためのイベント、いわば展示会です。そこでは日本のお祭りのように綿アメやイカ焼きの屋台は並ばない。ステーキと乳製品、高原野菜といった酪農文化の産物が並ぶお祭りであり、戦後日本の地域おこしイベントの元祖なんです。


三上 カンティフェアはその後1973年まで続きますが、いったんなくなりますよね。

井尻 はい。そして、1979年にはポール・ラッシュさんもお亡くなりになる。82歳でした。不幸なことにポールさんが亡くなるのと前後して、彼が後継者として育ててきたリーダー候補も次々と亡くなってしまうんです。キープ協会は混乱に陥ってしまった。その混乱のなかで、キープ協会は地域とのつながりも失っていった。労働争議や地元住民によるキープ反対運動まで起こるんです。ちょうど清里に大ブームが来ていたころのことでした。

三上 バブルのころですね。駅前にタレントショップなどが乱立して、「高原の原宿」なんて呼ばれていた時期。

井尻 年間200万人もの人が来るようになっていた。駅前は通勤ラッシュの満員電車みたいな状態だったんです。最盛期にショップの売り上げは1日何百万円にもなる。でも、そんななかで舩木社長さんは「こんなのは本物じゃない。いずれ滅びる」って予言していた。結果的にそのとおりになったでしょう? 清里のバブルはやがて陰り、乱立していたタレントショップやファンシーグッズのお店はみんな撤退していった。彼はなぜその未来が予見できたのか。それは彼が、舩木家が本物というものを知っていたからです。ポール・ラッシュ直伝の教えを受け継ぐ者だからです。

三上 「Do Your Best and It Must Be First Class(最善を尽くし一流たるべし)」というポール先生のあの言葉に象徴される教えですね。


井尻 そうです。そして、この言葉には背景があるんです。それはキリスト教です。ポール・ラッシュさんはキリスト教宣教師であり、教えを広めるというミッションを持って日本にやってきている。舩木社長さんもその教えを受けたクリスチャンです。だから、この言葉の背景にもキリスト教と神がある。最善を尽くし、一流でなければならない。それはなぜかといったら、クリスチャンたる舩木さんが行う事業は神の栄光に捧げられるものであり、人々のお手本になるものでなければならない。二流のものなら見向きもされない、ポールさん、ひいては神の栄光を汚すことになる。では、一流とは何か。これは難しいです。それぞれの感性になってくる。でも、舩木家にはポールさん直伝のガイドラインがある。それは「人々のお手本になるもの、モデルになるもの」ということです。バブルの清里駅前にあったいろんなお店はモデルになるものでしたか? そうではないでしょう? だから二流であり、やがて消えていった。上次さんにはそれがわかっていたんですね。逆にモデルになるような一流のものには必ず人々が集まってくる。だから、「Do Your Best」というあの一節の続きには「If you do it , People will come(お前がそれをやれば、人々は必ずやってくる)」という言葉が暗に込められているんです。

三上 それが一流の意味なんですね。

井尻 そして、清里から失われたその精神を再び人々に伝えることが舩木社長さんのミッションでもあるわけです。それで彼は、たまたま取材で立ち寄った若造の新聞記者の私を、熱弁で仲間に引きずり込んだのです。「清里の恩人であるポールさんのことを忘れて、清里の繁栄はありえない。このままでは清里は滅びてしまう。なんとかしなければならない。あなたは記者だから、それを調べてみんなに伝えるべきだ」と。それで私は新聞でポール・ラッシュさんについての「清里の父ポール・ラッシュ伝」という連載を始める羽目になってしまった。これは1年半にわたる長期連載になりました。八ヶ岳カンティフェアをポール・ラッシュ祭として復活させたのも、そうした舩木さんの想いが原点にあるのです。おかげで、私は今もポール、ポールで人生が滅茶苦茶です(笑)。

清里に受け継がれた聖伝の意味

三上 カンティフェアは1988年にポール・ラッシュ祭として復活しますよね。今年も10月13日、14日に開催されます。

2018年は10月13日、14日にわたって開催される「ポール・ラッシュ祭〜八ヶ岳カンティフェア〜」。例年5万人を動員する秋の大イベントです。

井尻 そう。舩木さんや仲間たちの想いをきっかけに始まった「清里の父ポール・ラッシュ伝」は山梨県内外にいろんな反響をもたらしました。改めて山梨の人々がポール・ラッシュさんとその教えを知るきっかけになった。そして、山梨県企画管理局長の小沢澄夫さんが動き始めるんです。小沢さんは八ヶ岳山麓の長坂の農家に育ち、ポール・ラッシュさんの生き方を敬愛していたひとりでした。そんな彼がポールさんの理想と実践を継承し、ポール・ラッシュ精神による八ヶ岳のまちづくりを進めるためのプロジェクトを立ち上げるんですが、そこには理由があったんです。実は当時、キープ協会は消滅の危機にあったんです。

三上 消滅ですか?

井尻 キープ協会の敷地というのはみんな県有地なんです。ポール・ラッシュさんと皇室との約束を背景に、戦後の山梨県知事が後押しし、土地を貸与していた。でも、このときキープ協会に貸していた土地の賃貸契約をもう終わりにしようという計画が持ち上がっていたんです。そして、ゴルフ場をつくろう、と。

三上 わー……時代ですね。

井尻 時代だよねぇ。でも、それではキープも清里も困る。何とか恩返しをしなければならないと県の幹部である小沢さんは動き出したんです。それで、1986年1月に萌木の村のホテル・ハットウォールデンに清里観光振興会青年部の舩木さんや若い人たちが集まって、第1回の会合を開いた。県の若手職員もたくさん連れてきてね。そして、ポール・ラッシュ精神に基づく街づくりの一環として、ポール・ラッシュ祭が企画されたんです。ポール・ラッシュ精神を全国に広げるためのイベントです。清里の新たな歴史はここから始まったんです。「21世紀の日本人はどうあるべきかという大胆不敵なメッセージを全国の人に伝えようとした」なんて大胆なことも言っていましたよ(笑)。

三上 それを清里や県の人たちだけでやったんですか?

井尻 最初は電通も入っていたんです。でも、「1万人の人間椅子をやってギネスをめざしましょう」とか「レーザーでビームを飛ばして大きな円をつくろう」とかそんなアイディアばっかりでね(笑)。私たちはあきれてしまって、それで結局「東京の人間ではダメだ」ってなって、地元の人間でやっていくことになった。ポール・ラッシュさんの教えに基づいて、新しい高原の収穫祭、新しい高原のおもてなし文化を発信していくお祭りですから。運営は全国からボランティアを募った。ポールさんの教え子たちや県庁のネットワークを通じてね。あっというまに全国から自腹で500人が集まって、それがみんな清里に泊まっていくわけです。全国の街づくりのリーダーの人たちが集まっているので、「これからの地域文化のつくり方」なんていうのを一晩中話す。あるいは踊ったり、酒を飲んだり。そういう人たちが常連になって毎年来るようになり、30年たった今でも参加している人が大勢いるんです。そうやって復活したポール・ラッシュ祭はいきなり日本イベント大賞を受賞する。その後、国土庁長官賞も受賞して、山梨県がキープ協会に県有地を返せという話もうやむやになってしまった。

三上 立ち上げから関わった井尻さんから見て、最近のポール・ラッシュ祭はどう映っていますか?

井尻 偉大なるマンネリだよね(笑)。ただ、そのなかで新しい世代が育っている。ポール・ラッシュ祭を立ち上げたのはいわば開拓二世というべき世代ですが、今の中心は三世というべき世代になっています。その彼らにポール・ラッシュ精神が引き継がれている。我々世代はもう卒業しなきゃいけない。


三上 こういう話を聞くと、現在の僕たちのミッションがいかに壮大か痛感します。僕も何か考えるとき、ポール先生の考え方や清里の歴史を意識するようにはしているんですが、今の話を聞くと現状はまだまだお恥ずかしいものです。

井尻 このスピリットというのはこれから三上さんたちが受け継いでいかなければならないものです。ポール・ラッシュさんから舩木家に受け継がれた教えと精神は、いわば萌木の村、清里にとっての聖伝です。それを失えば滅びるしかない。ROCKは店内にポール・ラッシュさんの肖像を掲げてるでしょう? スタッフ向けに、バックヤードで掲げているわけではない。お客さんに向けて宣言しているわけです。「我々はポール・ラッシュ精神を受け継ぐ者である。お金儲けのためだけでやっているわけじゃなく、そのメッセージを伝えるためにやっているんだ」という宣言です。だから、自分たちの希望のスピリットがいったいどういうものなのか、ここに来る人たちに自分たちの言葉で説明できないといけないんですよね。自分たちの根っこがどこにあるのか、そしてそれをどうアップデートしていくのか?フィールドバレエで日本トップクラスのイベントとなり、地ビールでは世界トップの評価を獲得。東日本大震災では復興支援のお手本を示してくれました。その挑戦を永遠に問い続け、学び続けないといけない。そうすれば、これからも萌木の村の奇跡は続いていくでしょう。ROCKの火災の際に集まった大勢の人々の温かい支援と復興は何よりの証明だと思います。

三上 本当にそうですね。今日は貴重なお話、本当にありがとうございました!

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