ROCKの若き総支配人・三上浩太が「今会いたい人」「話をしたい人」に声をかけて、飲食店という枠を超えた話をするシリーズ「三上が聞く」。今回はROCKに併設されたビール醸造所である八ヶ岳ブルワリーの元醸造責任者・山田一巳さんにお話を聞きます。
山田さんは、キリンビールで醸造開発責任者として「一番搾り」や「ハートランド」の開発に携わってきたビール職人。キリンを定年退職した後、醸造長として八ヶ岳ブルワリーへやってきた人です。現在は醸造の現場からは退いていますが、今も年に数回清里へ足を運んでいます。
三上も実はあまり話す機会がなかったという山田さん。改めて「タッチダウン」や八ヶ岳ブルワリーの誕生について聞きました。
1936年生まれ、神奈川県横浜市出身。
1956年キリンビール入社。醸造・仕込み・発酵部門を担当後、1980年からパイロットブランド責任者として「ラガービール」「一番搾り」「春咲き生ビール」「秋味」などキリンビールすべての商品にたずさわる。1996年8月定年退職。翌年、清里へ。40年以上のキャリアを生かして「八ヶ岳ブルワリー」元醸造長・製造部門責任者としてタッチダウンビールの礎をつくった。
「上面発酵じゃ面白くないだろ? 好きなようにやっちゃえ」
三上 山田さんとは僕もなかなかお話しする機会がないので、今回こういう機会をいただいたのは嬉しいです。
山田 もう年だからね(笑)。
三上 いやいや。そもそも八ヶ岳ブルワリーに来るきっかけは何だったんですか?
山田 キリンにいたときの部下に、ビールなんかの輸入代行をやる会社の息子がいたんだよ。その親父さんがアメリカンフットボールをやってた関係で、清里、清泉寮とつながりがあった。で、ROCKがブルーパブになるってときに「誰かビールをつくれる人はいないか」って探してたんだね。それでその部下から持ちかけられたんだ。俺がちょうど定年間近だったから。まあ、縁だよね。
三上 実際に清里に来たのはいつなんですか?
山田 1996年の6月くらいかな。まだ定年退職前だから、そのときは会社に内緒で(笑)。まあ、会社も知ってたとは思うけどね。辞めるときにちゃんと許可も取ってきたから。
三上 辞めるときに何か契約みたいなことがあったんですか?
山田 あるある。定年でも一応退職届って出すんだけど、そのときに「向こう5年は醸造の仕事に就かない」とかあるんだよ。でも、その受付担当の人が俺のことよく知らなくて、最初は「上面発酵(※発酵過程で酵母が上面に上がってくる醸造方法。主にエールタイプのビールに用いられる)ならいいですよ」って許可が下りたの。そしたら、当時の俺の上長がさ、「上面発酵じゃ面白くないだろ? 好きなようにやっちゃえ」って言ってくれて。それで清里へ来て「上面発酵なんてやらないよ。面白くないから」って全部予定を変えちゃった(笑)。
三上 じゃあ、最初は上面発酵でやる予定だったんですか?
山田 そう。「ペールエール」ってラベルもできてたんだから。でも、それも全部変えちゃった(笑)。
三上 設備的には大丈夫だったんですか?
山田 それは問題ない。でも、俺はデコクション(※麦汁の糖化方法のひとつ。複数回煮沸しながら糖化を進める)やりたいから。オールモルトでデコクションをやるって決めてた。味に深みが出るからね。それで急遽デコクションに必要な釜を増やしたんだ。だから、今ここは釜がひとつ地下にあるでしょう?
三上 あ、あれってそういう理由で地下なんですか。
山田 そうそう。普通3つ釜を並べるもんなんだけど、急遽増やしたから置けなくて地下に入れたんだよ。
ギリギリでもみっともないことはできない
三上 実際にここでビールをつくりはじめたのはいつなんですか?
山田 97年の7月にブルーパブがオープンするって決まってたんだけど(※1997年7月、ROCKは改築し新たに八ヶ岳ブルワリーを併設するブルーパブに生まれ変わった)、醸造の設備が入ってきたのがゴールデンウィーク前くらいかな。もうギリギリ。
三上 じゃあ、試作とかは……。
山田 試作なんてないよ。ぶっつけ本番。「こういうプログラムならこういうビールができるだろう」って想像の世界。それでもオープンのときはギリギリのタイミングだった。だから社長なんて「もしビールが間に合わなかったら大手のビール買うから」って言ってたんだけど、そんなみっともないことできないでしょ? だってブルーパブとしてオープンするんだからさ。それで、最初は醸造期間が短いピルスナーだけつくった。デュンケルはちょっと時間がかかるからあとからつくることにしてね。
三上 けっこうバタバタだったんですね。
山田 バタバタもいいとこだよ。最初の仕込みなんか2本ぶっ続けでやってさ。朝5時から始めて、終わったのが次の朝3時とか4時だよ。さすがに死ぬかと思った(笑)。でも、なんとか間に合って、プレオープンでもピルスナーを出せた。プレオープンは招待した人のみで、ビールも無料だったんだけど、無料にしたってみんな「うまい」って何杯もおかわりしてね。それを見て「いける」と思ったんだ。
三上 その甲斐あって2代目ROCKのオープンのときは大盛況だったそうですね。
山田 待ち時間が最大4時間だったって(笑)。約150席あったのかな? それで1日1400人入ったっていうから、10回転近くしたんだね。まあ、古き良き時代だよ。
ビールづくり全体を見ることができる職人が少なかった時代
三上 それにしても、山田さんが来てくれるって決まってもいないのに、うちの社長はビールをつくる計画を立ててたんですね(笑)。
山田 一応すでに多少醸造の経験があるって人はいたんだよ。
三上 それにしても肝心の職人がしっかり決まってないっていうのは博打すぎる(笑)。
山田 当時そもそもそんなにビールづくりを最初から最後まで見られる職人って、日本にはあまりいなかったんだと思うよ。大手だって、分業体制だから、多くの人は全体の一角しか担当できない。だから、90年代の地ビールブームのときドイツからたくさん職人が来たんだよ。すごくいいお給料でね。でも、彼らにとってはビールづくりの知識は知的財産。だから、日本に来ても自分である程度オペレーターをやって、その知識は残していかない。彼らが帰っちゃうともうビールはつくれないわけ。だけど、給料が高いからどんなに長くても1年くらいしかいてもらえない。それでだんだんやっていけなくなって、今ではドイツ人ブルワーがいるところなんてほとんどなくなった。
三上 八ヶ岳ブルワリーも最初はドイツ人を呼んでたんですか?
山田 設備を入れるときに指導で何人かね。でも、ここは俺が自分でプログラムを組めるから、必要ないわけ。だから「用ないから帰りな」って(笑)。でも、彼らを呼んだ人たちが「せっかく来てるんだから何かやらせてください」っていうから、機械を動かすところはやってもらって。でも、「余分な口は出すな」って言ってたよ(笑)。
三上 そう考えると、当時ビール職人自体が日本には少なかったんですね。
山田 やれるところがなかったからね。ビールをつくっているのは大手だったけど、大手だとさっきも言ったとおり分業だから一部しか担当できない。俺はたまたま新商品開発の部署にいて、そこで試作プラントを持っていたから仕込みから瓶詰めまで全部やれたんだよ。なにしろ3年先の新商品まで考えていくっていうところだったから、毎日毎日仕込むわけ。しかも毎回プログラムが違うものを。「一番搾り」もそうやってつくったんだ。
楽しみになってくるから仕事を覚える
三上 「一番搾り」が発売されたのが90年でしたっけ。あれはどれくらいかけてつくったんですか?
山田 あれは下地がある程度あったんだけど、それから30回くらい仕込みを試したかな。だから、3年くらい。最初はプレミアムビールをつくるって話から始まったものだったんだけど、つくってるときにその当時の部長と話してプレミアムをやめたんだ。「これ、プレミアムで出したら売れないよ」って。飲んべえってさ、10円高かったら買わないよ。もちろんコストはかかってるんだけど、その分たくさん売れば何とかなる。それで、最終的にプレミアムではない形で出すことになったんだ。
三上 そうなんですね。
山田 当時はちょうどライバルのスーパードライがすごく売れている時期で、キリンのシェアが落ちてきてる時期だった。キリンはそれまでものすごいシェアがあって、独占禁止法に引っかかるから分社化しないと、なんて話まであったくらいだった。だから、営業なんて全然必要なかったわけ。「他社がビールの宣伝をすればキリンのラガーが売れる」なんて言われてたんだから(笑)。でも、スーパードライの登場でシェアが落ちてきて、営業に行くようになるんだけど、それまで営業なんてたいしてしてなかったからお店では相手にされなかったわけ。そこに「一番搾り」が出て、すごく売れた。だから、営業に喜ばれたよ。当時「一番搾り」は「搾り」って呼ばれてたんだけど、「搾りはスーパードライを追い落とせる。本当にやりがいがある」って。実際売れに売れて、確かあのとき全社員に一律で特別ボーナスが出たんだよ。
三上 その開発責任者が山田さんだったんですね。
山田 開発自体の責任者は別だけどね。俺は試作プラントの運営責任者としてやっていた。作業を割り振って、自分も実際に作業したり。でも、それが面白いんだよ。ただ作業工程の一部だけやってても面白くないけど、商品開発は全部できるでしょう? 毎日違うものをつくれるから、やりがいも出てくるし、会社に行くのが楽しみになってくる。楽しみになったら仕事も覚えるよね。イヤイヤやってるのとは違うから。俺も日曜に自主的に出社したりしてたもん。当時開発のプラントって温度管理がコンピュータじゃなくて人間の手でやってたから。八ヶ岳ブルワリーもそうだけどね。そうすると休みの日でも温度が心配になってきたりするわけ。それで日曜日に行くと、守衛さんもわかってるから鍵を貸してくれてさ。責任者だからっていうのももちろんあったけど、やっぱり楽しみのひとつだったんだよ、それも。
「冒険すること」が若手を育てる
——今八ヶ岳ブルワリーは山田さんのもとで教えられた若いブルワーが中心になって醸造を行っていますが、若い人たちはどんなふうに指導してきたんですか?
山田 冒険してみなって言ってるね。ピルスナーとデュンケルに関しては今の味を保つように言ってるけど、それ以外は冒険しないとね。ロックボックなんかも俺がつくったビールだから冒険できないんだけど(笑)。
三上 実際、この秋は初のコラボビールをつくったり、いろんな挑戦をしていますね。
山田 あとは出し方まで考えられたら本当はいいよね。ビールってサーバー(注ぐ人)で味がガラッと変わるから。松岡(八ヶ岳ブルワリーのヘッドブルワー)なんて丁寧だしうまいよ。サーバーもそういううまい人がいつも担当したりできれば、もっとおいしくなる。
——うまいサーバーに注いでもらうイベントなんかがあっても面白いですね。
山田 そうだね。俺もこの前ほかのところでサーバーやったけど、知ってる人には喜ばれたよ(笑)。
三上 そういう部分も含めて、ROCKをどういうお店にしていくかもう一度見つめ直さないといけないですね。おいしいというだけじゃなく、コミュニケーションのためのツールとしての役割もあったり、ビールの役割も変わってきている。気持ちよく飲んでもらうためにインフラも考える必要がありますしね。せっかく山田さんが残してくれた宝物があるから、もっと楽しんでもらうあり方を考えていきたいです。今日は本当にありがとうございました!