「自分のキャリアをつくることじゃなく、ひとつひとつの人間関係を大事に生きたい」
——千葉から島根、山梨へとやってきたスタッフ・渡邉諭

個性豊かなスタッフが集まるROCK。旅に出る人もいれば、いろんなところからこのお店にたどり着いた人もいます。

そんなスタッフのひとりが、去年お店に加わった渡邉諭。千葉県出身の彼ですが、ここに来る前は東京、島根といろんなところで働いてきた経歴を持っています。

ホールや夏のガーデンカフェなどで活躍している彼が、ここにやってきたのはなぜなのか? そんなことを含めて、話を聞きました!

音楽に関わった時期に遭遇した震災

——渡邉さんって今何歳なんですか?

34歳です。

——え、全然見えないですね。

意外と年齢行ってるんですよ(笑)。でも、ROCKで働きはじめたのは去年の1月。4月から正社員になったんですが、まだここで働きはじめて1年くらいです。流れ着いた感じです(笑)。

渡邉諭。

——ここに来る前は何をしてたんですか?

いろいろですね。出身は千葉県の船橋市。ららぽーとで育ちました(笑)。大学までは千葉で過ごしてました。大学を卒業したあと何をするかってイメージがなくて。マーケティングの学部に通っていて、そういうことは好きだったんですけど、具体的にどんな分野で働きたいかって聞かれるとわからなかった。それで、音楽が好きだったからそっちの方に進もうかなと思ったんですけど、それもツテも何もなかったので、卒業後に音楽系の専門学校に行ったんです。専門学校を出たあと音楽関係の事務所でマネージメントをやるようになったんですが、結局そこに入るきっかけは専門学校とは別だったりしました。自分で飛び込んでいくような感じで入りました。

——その事務所ではどんなことをやってたんですか?

メジャーなアーティストもいましたが、キャッチーなところだと当時はいわゆる地下アイドルなんかが盛り上がってる時期で、握手会でお客さんを流したりもしてましたよ。

——ああ、それまでのいわゆる「アイドル」とは違う文脈が育ちはじめた時期ですね。

そうそう。ももクロ(「ももいろクローバー」、2011年に「ももいろクローバーZ」に改名)なんかが出てきたころから、単に「かわいい」ってだけじゃないアイドルが元気になっていって、面白い時期でした。ライブも1日3回とかやって、そのたびに物販、握手会と回していくとか、すごいハードなことやってましたね。ただ、仕事もハードだし、業界のありようにも疲れてきて、2〜3年経ったころに辞めようかなと思うようになっていたんです。それで「どうしようかな」なんて思っているときに、東日本大震災があった。

——当時東京にいたんですよね? いわゆる被災地は東北でしたけど、東京もかなり揺れて、すごくインパクトがありましたよね。

ありましたね。あの日、僕は渋谷の職場で働いていたんですけど、渋谷にいる人たちも(東京の交通なども含めた)状況がよくわかってないし、帰れないから、そのまま一晩中飲み歩いてたりしました。

——僕は当時新宿の方にいて、歩いて帰ったんですが、本当に変な空気でしたね、あの日は。

変なテンションでしたね。みんなふわふわしてた。その後いろんな状況が見えてくるわけですけど、震災がきっかけで情報を自分で集めるようになって、地域とかコミュニティとか政治的なもの、生き方や社会について関心を持ち始めたんです。で、Twitterとかも使って情報収集しているときに、たまたま島根の人と出会ったんです。石見銀山とかで知られる地方のことを知って、「じゃあ今の仕事辞めて移住します!」って、ほとんど勢いで決めました。それで向こうに移住して、まちづくりみたいなことをやっているNPOに入りました。

“過疎の先進地域”へ移住

——東京からいきなり島根ですか。

場所はどこでもよかったんです(笑)。たまたまそのとき出会ったのが島根だったので。でも、行ったところは面白いところなんです。島根県の江津市ってところなんですけど、ここは元祖「過疎」みたいな町なんです。「日本はこれから人口が減っていって、成立が難しい地域が出てくる」という話が始まったときに「過疎」という言葉が初めて使われるんですが、その例として出されたのが江津市だった。だから、すごく早い段階から過疎化に取り組んできたんです。

——過疎対策の先進地域なんですね。

そうです。だから、僕が行っていた時期には各地から視察が来たりもするようになっていた。定住とか移住とかに対していろいろ施策を行っているので。ただ、このあたりとは置かれている状況は違いますね。山梨とか長野あたりだと首都圏とも近いから、たぶん人の流出入が比較的多いでしょう? でも、島根あたりだとそもそも来る人が少ない。その少ない人たちにきちんと定着してもらう仕組みをやってるんです。

——面白いですね。渡邉さんはそこでどんなことを?

まちづくりのNPOだったので、県や市と一緒に移住定住支援やキャリア教育支援などをやっていました。特に僕が行った当初はベンチャーっぽい雰囲気のNPOで、仕事もかなりフットワーク軽くやれたんです。でも、3年目くらいのときにそのNPOが市の指定管理を受けて公共施設の運営をすることになって、働き方もかなり変わった。やっぱりルールをしっかりしていったりということが必要になりますから。その形のなかだと、ちょっと僕はうまくいかなくなってしまって。悩んだりもしたんですが、「3年やって、一応自分がいた期間に果たすべき役目は終わったのかな」ということにして辞めることにして、いったん実家に戻ったんです。

——実家では何を?

しばらくフラフラしてました(笑)。実は辞めたときに悩みすぎて、ちょっと鬱っぽくなっちゃって。働く気にもなれず……何やってたっけ? バイクで旅をしたりもしたし、何かビジネスをはじめられないか考えたり。そんなことしながら、バイトをやって食いつないでました。幸い実家だったんで。ZOZOTOWNの倉庫でバイトしたりもしてましたよ(笑)。

人の縁に寄り添って動いていく

——ROCKに来るきっかけは何だったんですか?

リゾナーレ八ヶ岳で派遣バイトみたいなことをやってたんですね。そのときに知り合った山梨出身の社員の女の子と付き合うことになったんですけど、その子がROCKが大好きで。それでいっしょに食べに来たりしていたんです。最初は「こんなところにこんな大きなお店があるんだ」ってくらいの印象でしたね。そんななかで、たまたま三上さん(ROCK支配人・三上浩太)と知り合って、「うちで働かない?」って話に。

——それもすごいですね。だって当時千葉に住んでたわけでしょう?

そうです(笑)。でも、これも何かの縁だろうなって思ったんです。僕は、人の縁とか流れでしか動けないタイプなんです。自分で「これをやるぞ!」って決めて動けるタイプではない。だから、縁があったらそれに乗っかってみる。ここもそういう縁や流れがあったから、「じゃあ、乗ってみよう」と思ったんです。幸い寮もあるから住むところも確保できますし。

——じゃあ、ここもその流れでいきなり移住ですか。まわりも驚いたでしょう?

友だちには今も「よくわかんない」って言われますね(笑)。いきなり島根に行って、そのあと今は山梨でしょう? 地元の友だちはわりと地元に残ってる人が多いんです。東京にも通勤できるし。年に何回か飲み会したりもするんですけど、行くと「いつ(千葉に)戻ってくるの?」なんて聞かれたりする。「いや、戻ってくるとかそういうんじゃないんだよなぁ」って。でも、そう言うと「じゃあずっと山梨とか島根に住むの?」って聞かれるんですけど、それも別に決めてるわけじゃない。次はどこに行こうって決めてるわけでもないし、ずっといるかもしれないけど、いないかもしれない。

——フットワークが軽いですよね。あと、話していても感じますけど、新しい場所にもスッとなじめそうです。

そうですね。割とスルッと入れる方だと思います。

——そういうフットワークの軽さはROCKというお店と合っているようにも思います。

生き方とか人生観みたいなものは合ってるなって思います。空気が合うというか。イベントなんかもいろいろあって楽しいですしね。去年の夏は主にガーデンカフェにいたんですけど、夏はフィールドバレエもやってるでしょう? カフェにいると準備して、お客さんが集まってきて、開演して、また帰っていくっていう流れをずっと見ることができる。ダンサーさんも来たりしますし。それはすごく面白かった。やっぱりステージとかそういうものが好きなんです。

企画だけでイベントは成立しない

——それこそ、やろうと思ったら自分でイベントを企画したりもできますもんね。

やれたら面白いですよね。ただ、これまでの仕事で実感したことですけど、イベントって単に企画して演者さんを呼べばそれでできるものでもないんです。ガワだけあっても人は集まらないというか。「なんでここでやるのか」とか「なんでこの人たちを呼んだのか」とか、「そもそもこれは誰がやりたくてやっていることなのか」みたいな部分が重要で、そこには人の繋がりも必要になる。だから、イベントをやれるようになるには時間がかかると思ってます。ただ企画を立てればできるというわけじゃない。

今は絵を描いたり、シンガーソングライターだったりする一面も。

——わかります。イベントって何人かの人間の意思がないと、ちゃんと成立しないんですよね。

そうなんです。単純に「企画ありき」みたいなものってうまくいかない。だから、いいタイミングでできたらいいなって思ってます。

——ここは音楽が好きな人も多いですし、何かきっかけがあったら形になりそうですよね。

僕はメタル好きなんで、(舩木)功さんなんかとはよく話します。まあ、功さんは僕なんかよりずっとマニアックなので、「勉強させてもらいます!」って感じですけど(笑)。お店でも1回ちょっとメタル、ハードロックっぽい曲をかけたことがあるんです。もうお客さんも顔なじみの方がひとりだけだったので、軽い感じで。そうしたらそのお客さんに「これ、君の選曲?」って聞かれて、「そうです」って言ったらすごく盛り上がって。聞いたらバリバリのギタリストなんですよ、その人。そこに功さんも来て、3人でものすごく盛り上がりました。ほかにお客さんもいないからめちゃめちゃメタル流して。閉店後とかにこっそり「メタルナイト」みたいなことやりたいですね(笑)。

——楽しそう(笑)。

「自分の成果」を上げることに固執しなくなった

——前職からこっちに来る前、ちょっと調子を崩していたんですよね? 今話しているとそうは思えないくらいです。何か変わるきっかけはあったんですか?

うーん……正直に言えば、よくなったというより、今もまだ自分のなかではいろんなことを模索中という感じです。僕は基本的に考え方はネガティブなんです。そう見えないって言われるし、僕自身も「ここまで陰(いん)の人間だったのか」って自覚したのはここ数年なんですけど(笑)。薄々気付いてはいたけど、ここまで根の部分がネガティブだとは思ってなかった。実は人と会うのもそれほど好きじゃないんだな、とか。

——そうなんですか?

たくさんじゃなくていいんですよね。気の合う人、価値観が近い人を大切にできればいいし、意外とひとりの時間も好きだったりする。だから、変わったとすれば、まわりの人を大事にしながら日々一生懸命生きようって思うようになっていることですかね。

——それまでは違った?

少し前、もうちょっと若いころは自分の成果をどうやって上げるかってことに一生懸命だったんです。自分のキャリアをつくらなきゃ、成果を残さなきゃって。家族とか身近な人を振り払ってでも前に進まないとって意識が強かった。

——それはそれでひとつのパワーでもありますよね。

そう。それでうまく行く人もいるし、いろんな原動力にもなった。だけど、僕の場合はそれでうまくいかなかったことを経て、今はひとつひとつの人間関係を大事にしていこうって思うようになりました。

——「自分が主役に」って時期を過ぎたことでできるようになることもありますよね。今ROCKはベテランと若手の中間をつなぐ人も少なかったりしますし。

そうですね。ROCKってボールを投げる人はたくさんいるんですけど、受け取って投げ返す人があんまりいないと思うんです。みんな自分の好きなボールを投げ合ってて、キャッチしない(笑)。僕はキャッチする方が得意だと思うんで、若い子たちも含めて、受け取って投げ返す役割をやっていけたらいいのかなと思ってます。

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