忙しいけど、ふしぎと行くのが楽しいお店でした
——元テニスプレイヤー・掛川昴

さまざまなスタッフが集まるROCK。そのなかには次の夢に向かって働いている人もいます。

この3月でROCKを卒業していく掛川昴もそのひとり。彼はテニス選手として活動してきて、2年前に引退。その後、トレーナーの資格を取る学校に通うため、ROCKのスタッフとして働いていました。

テニス以外の仕事はほぼ初めてだったという彼に、卒業を前に話を聞きました。

長野からメキシコ、横浜、山梨と移り歩いたテニス人生

——昴さんはテニスプレイヤーとして活動してきたということですが、テニスとの出会いはいつだったんですか?

掛川昴。

小学生のころです。その当時父の仕事の関係でメキシコにいたんですが、そこで本格的にテニスを始めました。どちらかというと親がやらせたかったような感じのきっかけでした。

——メキシコですか!

はい。小学校1年から中学校1年くらいまで、7年間住んでいました。出身は長野県の上田市です。

——今は山梨県内に住んでいるんですよね?

そうです。いろんなところを行ったり来たりしているんでややこしいんですが(笑)、メキシコから日本に戻ってきたときは横浜に住み始めたんです。実は戻ってきた理由もテニスの関係で。メキシコに住んでいるとき、テニスの全メキシコJr.みたいな大会に出たんです。そのとき、たまたま近くの会場で世界のトッププレイヤーの出るような大会もやっていたんです。

——メキシコってテニスも盛んなんですか?

いえ、サッカーや野球の方が盛んですね。でも、国土が広くて施設自体は整っているので、テニスの大きな大会も開催されているんです。で、そのときたまたま日本人プレイヤーも参加していて、その試合を見に行ったんです。後に僕の師匠になる人が、そこで出会った日本人選手のコーチなんです。その師匠の拠点というのが横浜にあった。ちょうどそのころ、僕の小学校卒業が近づいていて、今後の進路をどうしようかという話をしていました。日本人学校に通っていたんですが、「母国語での教育が必要なんじゃないか」とかいうのも含めて考えていたときに、そのコーチと出会って。結局、メキシコでの父の仕事はまだ途中だったんですが、僕のために横浜に移ってくれる形になったんです。

——その後、山梨に来たのもテニスの関係ですか?

はい。中学卒業後、高校は通信制のところを選んだんです。テニスでプロをめざしていたので、もう学校生活みたいなものはいいやってことで。そんなときに、師匠が関わりのある山梨県のクラブに拠点を移すことにしたんです。そのとき使っていた横浜の施設もよかったんですが、雨が降ると練習できなくなってしまったりしたので、より施設の整ったところに、ということで(山梨県北杜市の)須玉にあるクラブに拠点を移した。僕もたまたま自分の高校のキャンバスが当時山梨の日野春にあったので、こっちに移ることにしたんです。

“世界”というたったひとつのピラミッドで戦うテニス

——じゃあ、それから山梨で。

そうです。卒業後は須玉のクラブに所属して選手活動をしていました。

——テニス選手ってどういう生活をするんですか?

テニスはプロの世界だと年間通して世界各地で大会があるんです。野球みたいにシーズンオフみたいなものはなくて、毎週どこかで試合をやっているような感じです。なので、それに合わせて自分たちでスケジュールを組んで試合をやっていきます。世界でいえば4大大会という大きな大会があって、それを頂点にさまざまな大会がある。そこでポイントを獲得して、ランキングを上げることで大きな大会をめざすという仕組みになっています。僕の場合は、その国内版で戦っていました。

——じゃあ、「どこかに所属すればプロ」というわけじゃなく、とにかく大会に参加していけばプロということになるんですか?

一応決まりはあって、日本だと国内のランキングで100位以内に入るとプロ登録というのができるんです。それ以下だと登録はできますが、セミプロみたいなカテゴリーになります。僕もそこでした。ある意味では誰でもテニスを仕事にできるということになりますが、それで食べていくというのは本当に大変ですね。国内の試合だけだと話にならないし、実際テニスだけで食べていけている選手は日本だと片手で足りるくらいだと思います。

——やっぱり海外をめざさないといけないというわけですか。

そうですね。たとえば野球やサッカーは世界中にプロリーグや団体がある。そのどこかに所属すれば一応生活はできるじゃないですか。でも、テニスの場合は基本的に「世界一」を頂点にしたひとつのピラミッドしかない。だから、その戦いに入らないことには厳しいんです。日本国内の大会にしても、本当にトップレベルの選手は基本的に出てこないんです。世界の大会で獲得した1ポイントが、国内だと何百ポイントにも換算される。だから、国内ランキング上位のプレイヤーは世界の大会で活躍している。国内の最高峰である全日本選手権でもそうです。国内ランキング上位の選手がときどき出るくらいで、本当のトップは基本的に出ない。

——国内ランキングを上げて、世界の大会に参加できるようになるというのが目標になるわけですね。

そうなります。テニスの場合、世界ランキングで100位以内に入ると成功といわれたりします。そのクラスになると賞金だけでも数千万円、さらにスポンサー契約なんかも入ってくるので、しっかり食べていけるようになるんですが、それより下だとテニスだけというのは厳しいですから。僕もテニスのコーチをしながら試合に出るという生活が長かったです。

職人的な日本人と海外の“仕事”観

——本当に厳しい世界ですね。これはちょっと不躾な質問になりますが……そういうテニス人生を送ってきた昴さんが引退を決めたきっかけって何なんでしょう。

そうですね、どこから話せばいいか……でもやっぱり一番は先が見えなかったことですね。僕はずっと全日本選手権を頂点とする国内のランキングを戦っていたんですが、それも世界からすれば小さなピラミッドなんです。賞金にしても厳しい。僕も一応全日本選手権に出たんです。ダブルスで、32組しか参加できない本戦に。1回戦でボコボコにされたんですけど。それで賞金を受け取って改めて衝撃を受けて。

——日本の最高峰でもこれか、と。

わかってはいたんですよ?(笑) 出場規定にも書かれていますし。ただ、この大会に出るために国内の大会に何十試合も参加して、ポイントを稼いで、ようやく出られる大会でこの金額というのは、やっぱり受け取って改めて感じるものがありました。もちろん全日本選手権というのはお金のためだけに出るものではないんですが、生活が安定しなければテニスはできないですから。しかも、国内から世界へ出ていくというのもかなり高いハードルがある。年齢が上がって、自分のレベルも上がっていくにつれ、どれだけ厳しい世界か一層わかるようになって。本当に飛び抜けた選手しか世界には入っていけないんですよね。それこそ小さいころからずば抜けていたような選手がようやく、という世界。

——テニスはそういうイメージがありますね。

はい。スペインなんかだと本当に顕著ですね。スペインはテニスが盛んなんですが、プロになるかどうかという判断は15歳くらいで決めてしまう。女子なんかはもっと早く決める人が多いです。日本人って、僕もそうなんですが、ものごとを職として追求する人が多い傾向だと思うんです。でも、海外の人って「それで食べていけるか」というのをすごく考えている。だから、若いうちから「それで食べていけるのか」という観点で決断をするんです。そういうことを実感したのもあるし、精神的にも厳しくなってきて……。最後の1年は所属チームにサポートしてもらって、選手活動に専念したんですが、結果につながらず、悔いがないと思えるところまではやったので引退しよう、と。

「できなかったことができるようになる」はスポーツでも仕事でも喜び

——それでいわばセカンドキャリアを歩み始めたわけですね。ROCKで働くようになったきっかけは何なんですか?

引退したのが2017年の夏なんですが、その年の秋からROCKで働き始めました。トレーナー関係の資格取得のために学校に通うことにしたので、まずはその資金を稼がないと、ということで須玉から通える仕事場を探していたんです。南側の韮崎市の方か、北側の清里の方かといろいろ考えていたんですが、何となく清里の方の空気感が好きだったんです。標高的に須玉の方から登ってくる感じなんですが、途中でちょっと雰囲気が変わるというか。それで、働くなら清里の方かな、と。

——ROCKというお店は知っていたんですか?

お店自体は高校自体に一度来たことがある程度だったんですけど、知ってはいました。実は最初は別のお店で働こうと思って行ってみたんですが、そっちは募集も特になくて、冬季はお店も閉まってしまうといわれて。

主にホールを担当してきました。

——このあたりはそういうお店も多いですよね。

そのときに「そういえばこのあたりにお店があったな」ってROCKのことを思い出して。それで寄ってみたのがきっかけです。

——飲食というより、テニス以外の仕事自体初めてという感じですよね?

そうですね。派遣みたいな形で働いたことはあったんですけど、しっかり入って、チームで働くようなことは初めてでした。テニスもコーチとかといっしょにはやっていきますが、あまり「チームとして」ってことはないので、それは新鮮だったと思います。

——実際働いてみてどうでしたか?

実は朝は近くのパン屋さんでも働いていて、週末はテニスクラブでも指導をしていたので、トリプルワークみたいな形で忙しくはあったんですけど、ここに来るのがイヤだと感じることがなかったんです。もちろん連休や夏場は忙しいし、パン屋さんも朝早いので眠かったりはしたんですが(笑)、ふしぎと苦痛じゃない。居心地がいい場所になっていきました。

——それってなんでなんですかね?

何なんでしょうね。それぞれ違うことをやっていたので、そういう部分でも気分転換になったのかもしれないです。それと、仕事としても楽しさはありました。入ってすぐのころって何もわからないし、できない。でも、スポーツでも何でもそうだと思うですが、できないことができるようになるのって楽しいじゃないですか。ひとつひとつできることが増えていって、もっと素早くできるようになろうとか、工夫してみようってやって、習得したり、自分なりのやり方を見つけたりするのって楽しいですから。

ROCKは「エネルギーのある場所」

——ひとつひとつ成長を実感できるって大事ですよね。

はい。あと、やっぱり一番助けられたのは人間関係だと思います。ROCKっていろんな世代、いろんな人がいるじゃないですか。たとえば、三上さんとかは同い年なんですが、立場も今までの経歴も全然違って、見ているものが違う。社長を始め、年上の人もいるし、自伝を書けそうな経験をしている人も多いでしょう? もちろん自分より若い人もいる。そういう刺激を受けられるのが大きかったのかもしれません。単純に楽しかったです。

——ROCKのスタッフは個性的ですよね。

ある種変人が多いって感じですよね(笑)。たぶん清里やROCKの空気感というのがあって、合わない人もいる。だから、そういう人はやめてしまうんですけど、合う人はすごく長くやれる。僕も合うんだろうなと思います。抽象的な言い方になりますが、ROCKってエネルギーのあるところだと思うんです。集まってくる人も個性的だし、お店としても独特の空気がある。すごく安いお店というわけではなくて「ちょっと贅沢したい」というときに来てもいいお店じゃないですか。でも、敷居が高いわけじゃなくて、すごく気軽に来ることができる。

——ふしぎな雰囲気ですよね。

ものすごくたくさんのお客さんを受け入れられるし、それでいて料理もこだわっている。(料理長の)菊さんにしても、たぶんもっと高い素材を使って高い料理をつくろうと思えばできると思うんですけど、そういうのでないところを考えて、しかもレベルの高いものをつくっている。そういうバランス感がROCKというお店をつくってるんだと思います。

——4月からはいよいよ学校に行くことになり、須玉も離れるわけですね。

はい。最後はいろんな人に飲みに誘ってもらってりもしていて、ちょっと遊ぼうかなと思ってます(笑)。単に仕事場というのでなく、そういうホーム感のある場所になりました。前に(社長の舩木)上次さんが別のスタッフがやめるときに「ここを家だと思ってくれ。いつでも戻ってきてくれ」と言っていたんですが、僕にとってもそういうお店です。ここで働けて良かったと思うし、これから先の人生でどうつながるかはわからないですが、ここで働いていたこと、ROCKの人たちに出会えて仲良くなれたことは、すごくありがたいことだと思っています。

——今度はぜひ食べに来てください!

そうですね!

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