「次の世代に新しいことを始められる環境を渡すのが使命」
萌木の村の縁の下の力持ち・舩木淳インタビュー

ROCKや萌木の村の顔といえば、やはり社長の舩木上次を思い浮かべる人が多いだろう。創業者としてさまざまなお店や事業を立ち上げてきた、まさに最初の世代のシンボルだ。

と同時に、そんな舩木上次を長年支え続けたスタッフもいる。舩木三兄弟の次男である舩木淳だ。

三男である舩木良と同じように、ROCKの創業時から関わっている人物であり、ホテル・ハットウォールデンの支配人としても活躍してきた。そして、対外的な折衝や事務面など裏方的な仕事で萌木の村を支えてきた人物でもある。

今回はそんな舩木淳にインタビュー。縁の下の力持ち的な視点から、ROCKを語ってもらった。

初代ROCKは「いかがわしい世界」

——淳さんというと、ホテル・ハットウォールデンの支配人であり、萌木の村のさまざまな対外的な折衝を行っている縁の下の力持ちというイメージですが、ROCKや萌木の村と関わり始めたのはいつ頃なんですか?

舩木淳。

ROCKというか、まずは母が始めたドライブインが最初ですね。父がキープ協会の農場にいた頃、研修でアメリカに行ったことがあるんです。僕が小学校4年生くらいの頃だったかな? そのときにアメリカでドライブインというものを見て、日本でもやろうということで始めたんです。今でいうとパーキングエリアやサービスエリアみたいなものかな。当時出していたのは本当に食堂という感じのメニューで、ラーメンとかカツ丼とか……。そこで僕が初めて手伝ったのが五目そば。中学校のときにもう店が母ひとりでは回らなくなっていて、見よう見まねでつくったんです。だから、そのころから観光関係には関わっていたわけですね。それから社長が東京の大学を辞めて帰ってきて、喫茶店のようなものに憧れて始めたのがROCKです。だから、高校時代はROCKのイメージが強いかな。

——じゃあ、当時から飲食関係というのに興味があったんですか。

いや、僕は社長とちょっと違っていて、父は僕を牛の関係の仕事に就かせようと思っていたんです。帝京第三高校に進んだのもそれが理由。あそこは日大の推薦枠があったから、農獣医学部(現在の生物資源科学部)に行って獣医になるってつもりだったんです。だけど、僕自身は当時あんまり獣医さんって職業が好きではなくて、同時にそのころだんだん飲食が面白いって気持ちも湧いてきて、高校3年の10月くらいになって「YMCAのホテル専門学校に行きたい」って言ったんです。先生にはすごく怒られましたね(笑)。でも、それがひとつの転機だったかな。あのままいっていたら獣医さんになっていたかもしれない。

——専門学校を出たあとはまた清里に戻ってきたんですよね。

そう。戻ってきて、2〜3年くらいROCKで働いていたかな。

——当時のROCKってどんなイメージでしたか?

高校時代にもちょっと手伝いをしていたけど、そのころは子どもだからえげつない世界に見えたよ(笑)。若い人がいっぱいいてね、子どもにはとても入っていけない世界だった。でも、ドライブインは食堂って感じだったけど、ROCKはすごくモダン……モダンというのが正しい表現かわからないけど。たとえば、買い出しは東京のオリンピアってスーパーだったんですよ。そこで(スープ缶で知られる)キャンベルの缶詰とか買ったり。今でいうとコストコで買い物をするみたいな感覚かな? 当時田舎でそんなところはなかった。舩木三兄弟が今コストコが好きなのは、その延長線だよね。清泉寮がある関係で立教大学の学生がたくさんいたりもしたし、東京のハイカラなところを意識した、モダンな若者の店だったよ。BGMも海外の音楽がかかっててね。やっぱりその当時の若者の最先端をいってた気がします。東京の最先端の文化をそのまま持ってくることができる社長のセンスもあったと思うけど、やっぱりポール・ラッシュ博士の影響も大きかっただろうね。ポールさんがいなければああいうお店にはならなかったでしょう。

8割くらい「ビールの免許が取れなければいい」という気持ちだった(笑)

——その後ホテル・ハットウォールデンができるわけですね。

24歳くらいの時かな。若かったし、支配人というほどではなかったけど。最初はやっぱり大変でしたよ。何しろホテル自体の敷居が高かった。だって、当時で宿泊料も今と変わらないんだもん。高級な設定だった。だから、最初はなかなかうまくいかなかったんだけど、「non・no」に取り上げられるようになったのが起爆剤になって、どんどんお客さんが来るようになった。稼働率が年間平均で80%とか行ったからね。当時の「non・no」はそれだけ勢いがあった。そのときのお客さんが今も続いていたりするからありがたいですよ。

ハットウォールデンには年ごとの「イヤープレート」が飾られたスペースも。

——「non・no」だと来たのは大学生とかですか?

いや、それから清里自体がブームになったりして、高校生なんかも来るようになっていましたよ。最盛期は本当に原宿の竹下通りみたいな感じでしたよ。清里の駅前からここまで車で40分かかったんですから。

——清里が「高原の原宿」と呼ばれた時代ですね。淳さんはそのままハットウォールデンにいたんですか?

僕もこのままずっとハットウォールデンにいるのかな、と思ってたんだけど、その後いったん清里のブームが落ち着き始めた頃に会計の部門に2年くらい入ったんです。当時まだ萌木の村は会計がバラバラで、税金もすごくかかっていた。だから、組織変更して整理していったんです。それで会計がちょっとできるようになった。何しろ、ROCKをつくって、ホテルをつくって、オルゴール博物館をつくってと、いろんな大きなものをつくっていったから、ずっと借金があるわけです。返してはまた借りて、と。清里ブームのころはバブルの時代でもあったから、土地を担保にすると銀行も融資しやすかったし。オルゴール博物館なんてオルゴールを買ってから融資を取り付けたりなんてこともありましたよ(笑)。でも、やっぱり一番大きかったのは2代目のROCKをつくったときですね。

——八ヶ岳ブルワリーを立ち上げてビールをつくりはじめたときですね。

その当時会計の部署にいたんだけど、ビールって装置産業だから、とにかく設備投資がすごく必要になる。そうすると、お店としてもありえない数字をつくっていかないと成立しないんです。それまでのROCKって1日50人くらいのお客さんが入ればそれでフル稼働という規模で、実働で考えれば1日30人くらいのお店だったんです。だから、年間1,000人程度。でも、ブルワリーパブにして設備投資をするとなると、計算的に年間で万単位のお客さんが入るようにならないといけない。そんなことが本当にできるのかって思ってました。

——計画には淳さんもかなり関わっていたんですよね?

うん。書類なんかもね。ビールは免許が必要だから、どんなに頑張っても免許が下りなきゃできない。それで書類をつくるんだけど、それが数センチになるくらい分厚い資料で。同時に融資の関係書類も必要だから、それも同じくらい厚い資料をつくって。当時はまだ手書きで資料をつくってるから、「こことこことここが不備です」なんていわれると、コピーをとって切り貼りしたりしながら直してすぐ持っていくわけ。1週間くらい徹夜続きって感じだったよ(笑)。それでいて、つくるビール自体もイメージが固まっていなかったわけだから……。

——うわぁ。本当にドタバタですね……。

だから、あのときはビールの免許も取れなければいいって8割くらい思ってたんです、心のなかでは(笑)。だって、ホテルなんかの借金もようやく終わって、残っている借金の目処も立ち始めたってときにまたすごい額借りるわけですよ。トータルではまたすごい額になっちゃう。だから、怖いですよ。スケールとして自分の想像の範囲外だし。免許が取れなくてももともとあった事業でもないしね。でも、若かったしさ、どうにか免許は取ろうと頑張るわけ(笑)。

振り回されるなかで出会う楽しさ

——そういう話を聞いていても、本当に縁の下の力持ちというか、ある意味ではすごく社長に振り回されてきたというイメージです。

いや、でもね、大変だったというより刺激的だったんだよ。すごく楽しんでる。自分では想像もできないようなスケールのことを実際にどうやるかというのはひとつの楽しみだから。僕は自分で「これがやりたい!」って強烈なものがないんですよ。いろんな趣味もやるんだけど、大成したことはないというか、飽きっぽい。だから、ハングライダーもやりました。でも、1回落ちて、もうやめましたとか。ラリーも良くんとやったけど、長野県大会では準優勝したけど、良くんに怒られるのがイヤでやめました(笑)。

——怒られるんですか?(笑)

(ナビゲートで)ちょっと右左を間違えただけで、すごいいわれるから(笑)。あの人たちは1分1秒の世界で戦っているからね。僕はそもそも右左だってあやしい感覚でやってるから、「3時(の方向)」とか「10時」とか言えっていわれてもね(笑)。良くんはそういうところで大成するんだよね。素人の域を出られない。けど、社長のバイタリティみたいなものをサポートすると、本当にいろんな刺激を得られる。ビールのときもそうだったんですよ。インターとの出会いとか。

——インター……鈴木インターナショナルですね。

そう。今はちょっと会社名も変わったけど、大阪にある会社でビール設備なんかの輸入代行をやっていた。今も酵母なんかはそこから買っているんだけど。ビールをつくろうって社長が言い始めたときに、そこの社長(当時)と知り合ったんです。その人はアメリカンフットボールの名クォーターバックでね。ポール・ラッシュ博士は日本のアメフトの父でもあるから、その関係で「日本アメリカンフットボールの殿堂」をつくろうというときに知り合った。ビールのスペシャリストってことでね。

——設備ほかでかなり関わったそうですね。

うん。そもそも社長がビールをつくりたいと思ったのは、「水を使って何かをつくりたい」というところからの発想なんです。清里というか、このあたり、八ヶ岳というのは名水の土地ですから、それを使って何かつくれないか、と。そんな頃にいわゆる地ビールの解禁があって、小規模でもビールがつくれるようになった。それで八ヶ岳の水を使ったビールをつくろうということになったんです。だけど、僕もですけど、社長も下戸でお酒が飲めない。ビールのこともわかっていなかったんですよ。そしたら、インターの社長が「ビールというものを肌で感じなきゃダメだ!」って言って「ドイツに来い」と。それで連れて行かれたのが初めてのビールの研修旅行でした。

「ロマンのあるビール」がROCKのビールの原点

——何から何までサポートしてくれたんですね。

でもね、実はそのときはインターの社長って僕はあやしいおっちゃんくらいに思ってたんだよ(笑)。「誰それと知り合いだ」とかよく言うんだけど、それがみんなすごい名前ばっかりで。たとえば、市川猿之助さん(当時三代目、現・二代目市川猿翁)と知り合いとかさ。「本当かよ?」とか思ってたわけ。後に本当に猿之助さんの別荘に「ビールを持って来い!」って呼ばれたりして、嘘じゃなかったとわかるんだけど、当時は知らないから。だから、インターは「ロマンのあるビールをつくれ!」って言ってたんだけど、「なんだよ、それ」って思ってた。けど、実際にドイツに行って彼の言っていることが本当によくわかった。酒が飲めないからどこに行ってもりんごジュースなんだけど(笑)、でもドイツでビール文化に触れて、インターが何を言っているかようやくわかったんです。案内されたのはドイツの特に北でね。ドルトムントとかデュッセルドルフ。ドルトムントへ行ったことでROCKのアルトビールが生まれた。

ドイツへの視察旅行の際の写真。左から舩木上次、鈴木インターナショナル社長(当時)、舩木淳。

——北ですか。

そう。なんで北かっていうと、ドイツは歴史的に北側の方がより文明が発達しているんです。ビールってプログラムを精緻につくっていく、いわば科学者の酒なんです。逆にワインは農家のお酒。神の領域があって、どうやってよいぶどうをつくるかという視点がある。けど、ビールは設計図をどれだけきちんとつくるかというのが重要になる。

——確かにワインは「当たり年」というような文化がありますもんね。ビールはあまりそういうことがいわれない。

そう。技術が重要なんです。ROCKの場合だとその部分を(八ヶ岳ブルワリーの初代醸造責任者)山田(一巳)さんがつくってくれた。そういうことを含めて、ビールの文化に触れてようやくROCKのめざすビールのイメージが生まれた。だから、その後山田さんにも同じコースでドイツを旅してもらった。そういう意味で、ROCKのビールのルーツには鈴木インターナショナルという存在が大きいんです。人物としても本当に面白くて、僕は「この人のいうことだったら間違いない」って信奉できる人が人生で3人いるんですが、そのひとりがインターの当時の社長なんです。そういう出会いや刺激がすごく楽しかった。

最近見つかったというドイツの視察旅行の写真。

——そういう淳さんから見て、今のROCKの魅力ってどんなところだと思いますか?

働いている部分でいえばやっぱり人ですよ。たとえば今(萌木の村取締役の)三上くんがいなかったら萌木の村はすごくつまらないと思う。(八ヶ岳ブルワリーのヘッドブルワー)松岡くんがいなかったらやっぱりつまらないと思う。三上くんは人のネットワークをすごく広げてくれるし、松岡くんはビールの話をすると専門的なことがすごく面白い。そういう魅力がある人たちがいると楽しいですよね。正直、この年になると自分で刺激を求めていくのがめんどくさくなるっていう気持ちもありますから。そこに刺激を与えてくれる。それは社長もそうなんです。僕はハットウォールデンにいたので、お客さんという形でいろんな人と知り合って、社長に紹介することもあった。そこをきっかけにいろんな事業や展開につながったこともある。そういう意味ではある部分で貢献してこれたのかなという自負もあるんですが、社長のすごいところは紹介したあとなんです。スッとその人の奥に入っていって、そこからさらにいろんな人のつながりをつくっていくことができる。僕はホテルの人間で、お相手はお客様という気持ちもあるから、なかなかそうはいかないけど、社長はそこからどんどん絆をつくっていけるんです。あのバイタリティはすごいと思います。

「儲かる」と考えてつくる料理はおいしくならない

——ずっと萌木の村を支えてきた淳さんですが、これからやりたいことや目標みたいなものはありますか?

僕はもともと何かやりたいっていうのはなかったから、余生としては年金でしっかり暮らせればいいなくらいのものなんだけど(笑)、まだそうもいかないからね。僕らの世代としては、次の世代に次なるものを生み出せる礎を渡さないといけない。何かをつくって渡すということじゃなく、つくるための土台を渡すのが役割なんです。ひとつ大きいのはお金。やっぱり何かを生み出すにはどうしてもお金が必要になる。そのとき、新しくまたお金を借りられるようにしておかないといけない。今またROCKの火災と再建もあってお金を借りているわけです。この状態でさらに融資を受けるというのはしんどい。だから、お金を借りてまた次の投資ができるという段階に持っていくのが僕の使命かな、と思っています。環境をつくれば、次の世代の人たちが頑張れる。そのためには、ちゃんと利益が出る仕組みと、「ROCKや萌木の村はなんだか楽しい」というものをつくっていく必要がある。

——仕組みと楽しさ、ですか。

借金を返すというのは目的ではないけど、大きな課題なわけです。じゃあ、その方法はっていうと、それはセコく考えちゃダメだと思うんです。たとえば、ROCKで食べる料理が「これを出したら儲かる」ってものになったら、お客さんはもう二度と来ない。「楽しくごはんを食べられる」っていうことが重要なんです。ROCKの場合(料理長の)菊さん(菊原和徳)がまず「とにかくおいしいものを出したい」ってタイプでしょ? 本当に食べさせたいという気持ちがある人間が料理をつくるから、楽しくなる。ビールも同じで、ビールが好きで、ビールを飲むのが楽しいって人間がつくるからおいしい。松岡くんはそういう意味で適任だと思います。儲かるか儲からないかだけで考えると、本当においしいもの、楽しい食事はできない。だけど、それだけだと今度は利益にならなくなってしまう(笑)。そのバランスを考えていかないといけない。だから、付加価値がちゃんと付いた上での正当な価格というのをつくっていかないといけないんですよね。それは料理だけでなく、萌木の村全体も、地域としてもそうで、来た人が「楽しい」と思えるものを提供していかないといけない。今だったら「清里」というより「八ヶ岳」というエリアとして楽しいことをつくって、魅力を見せていかないといけないと思っています。

——上次さんとはまた違った方向からROCKや萌木の村のお話を聞けてすごく興味深かったです。ありがとうございました!

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